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身近な地震体験記 ~ 千葉編

東北地方太平洋沖地震の被災者の皆さまに心からお見舞い申し上げます。

私は、11日の午後「NHK文化センター千葉教室」にいました。場所は千葉駅の近くのビルの8階で、午後2時から始まった「朗読講座」の真最中。2時45分頃、ぐらぐらっと来ました。横揺れが次第に大きくなり、それがますます大きくなり、立っていられません。20人程の生徒さんは椅子に座ったまま机にしがみついています。

かなり広めの会議室が、壁際の棚に載っていた囲碁の碁石が器ごと転げ落ちて、派手な音をたてバラバラと床に飛び散ります。実害はありませんが恐怖心をあおります。ビルの8階だから揺れが大きいのだろうと思いましたが、まるで船に乗っているようで、右に左に大きく揺れます。しかも揺れはなかなか収まらず永遠に続くかと思われるほどでした。「怖い」という感覚ではなく、揺れが生理的に作用するのでしょうか心臓がどきどきしてきました。

ようやく収まった時、時計を見たら2時55分でした。後で2時46分から約6分間ということでしたが、10分以上続いたような実感でした。

事務所から「本日は全教室中止」という連絡があり、エレベーターが止まっているので、階段で1階まで下りて解散しました。

早速、千葉駅に行ってみると「首都圏の電車は全部運休」とのことで、これは「帰宅難民」になると思い、近くのビジネスホテルに駆け込んでチェックイン。これは好判断で、1時間後には「本日満室」の張り紙がでてました。
さて、家に連絡しようと思いましたが、携帯は不通。ホテルの電話もだめ。そこで外に出て「公衆電話」を探し、ビルの1階にある長い行列に並びました。

丁度、この日は卒業式があったようで和服に袴姿の娘さんが数人並んで、車の迎えを頼んでいるようですが、なかなか連絡がとれない様子。電車が止まっているので、道路が渋滞し、特に、市原のコスモ石油のガスタンクの火災で道路規制があり、千葉市内へ入れないのだろうと、周囲の人と話していました。やっと6時半頃、緑色の公衆電話から家の電話に繋がり、家内と連絡が付きました。

この時すでに、電話のあるビル1階の廊下には、新聞紙を敷いて床に座っている人が30人程、早目に閉店した近くのデパートの入口には、2重になっている扉の狭い空間の床に、20人位が座ったり寝転んだりしていました。コンビニに行くと弁当は全部売り切れ、駅の近くのコンビニでは、お茶やジュースも売り切れだったようです。

次の日、10時半頃、千葉駅に行くと千葉、東京間は開通しており、満員電車を見送って始発に乗り、座って東京駅まで無事到着。12時少し前でしたが、東京駅のコンコースにはシートが敷かれ、毛布にくるまって寝ている人も数人・・・。中央線も動いており新宿に到着。というわけで、夕刻までには我が家に帰りつきました。

それにしてもテレビで見る被災地の様子は涙なくして見られません。「主人と娘が津波にさらわれて」と泣き伏す女性、再会して抱き合って泣き出す親子、目をうつろにして子どもの名前と「生きていてくれ」とつぶやく男性、
必死になって名簿で家族を探す人々・・・。

菅総理は国民へのメッセージで「戦後65年間経過した中で、ある意味でこの間で最も厳しい危機だ・・・」
と言いました。確かに、広範囲の地震津波の被害に原発事故が重なれば、大きな災害であるに相違ありません。テレビで、町が全部津波に飲み込まれ瓦礫と泥の海を前に茫然とたたずむ人々を見て、これは66年前、東京でアメリカのB29の空襲で被災し、焼け野原を前に茫然としていた私自身の姿によく似ています。

しかし今回の本当の危機は「原発事故」だと思います。ごく僅かではあっても核燃料棒が融け「セシウム137」が外の環境に流れ出したと報じられました。テレビでは「レベル4」と言っていましたが、スリーマイル島の原発事故の一歩手前まで行ったのです。その後、注水に成功してメルトダウンへの危機は避けられたと報じられましたが、まだ完全に危機を脱したわけではありません。

この事態を招いたのは、津波で浸水したため炉心へ冷却水を送る装置が稼働せず、燃料棒が一時水面から露出して温度が急激に上がったからだと言います。しかも「福島第1原発」の1号機、2号機に続き3号機も同様のトラブルが発生したのです。更に「福島第2原発」でもトラブルが発生しています。枝野官房長官が抑えて、抑えて慎重に発言していましたが、これは、戦後というより「有史以来」の大ピンチといっても良いでしょう。

もともと地震や津波の危険が予想されるような土地に何故「原発」を建設したのでしょうか?まず、そこから考え直さなければならないでしょう。いくら、自然現象の地震や津波が原因とはいえ、原発から20キロ圏以内は避難しろと言われて不自由な避難生活を強いられた7万人~8万人の住民が原発の稼働再開や増設を簡単に許すでしょうか?

私たちは現在「電気漬け」の生活をしています。これまで日本政府は、電力の使用を増やすように誘導し、更に地球温暖化対策には「原発」しかないといって電力の3割以上を原発でまかない更に7割まで増やそうとしてきました。しかし、今回の事故でそれは困難になりました。

このため、明日3月14日から東電管内の関東地方1都8県で「輪番停電」を行うことになりました。「停電」といえば「第2次世界大戦中」から戦後にかけて、毎日のように停電があったことを思い出します。しかし、これから私たちは発想の転換をしなければならないでしょう。例えば、大電力を大規模な送電線で長距離を運ぶという今の方式が最適の方法なのか?今の方法では、送電経路上のロスがかなり大きいのです。もう少し小規模な発電方式で狭い地域に供給する方法はないのでしょうか?

また、地震や津波など自然災害に左右されないエネルギー供給方法はないものでしょうか?技術の進歩で解決する方法はないのでしょうか? そうした基本的な所から今後のエネルギー問題を考える必要があると思います。

磯浦康二(1957文新)
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