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【短期連載:第2話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸
前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表
上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒

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第二話 ギニア・ビサウでの体験~混乱の続く国
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「支離滅裂なジョッカ・ピメンテル事件」

ギニアビサウ共和国地図
(ギニア・ビサウの地図)

 今回は、私がアフリカ勤務最後の3年間滞在した西アフリカに属する「ギニア・ビサウ共和国」でのエピソードをご紹介したいと思います。

 「ギニア・ビサウ共和国、通称ギニア・ビサウは、西アフリカに位置する共和制国家。北にセネガルと、南と南西にギニアと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はビサウ。面積は日本の約10分の1で、人口は150万人程の小さい国です。
1446年にポルトガル人が上陸し、南北アメリカ大陸への奴隷貿易の中継地となった。1879年にポルトガル領ギニアが単独でポルトガルの植民地となった。1963年から独立戦争を戦い、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党が国土の3/4を解放して、1973年9月24日に独立を宣言し、アフリカで唯一の独立勢力が宗主国に一定の勝利を収めた国家となった。その独立戦争で1974年のリスボン革命の導火線になり、東チモールやアフリカの旧ポルトガル植民地5カ国の独立の先鞭になった国です。国の経済を支えるのはカシュウ・ナッツ(輸出の90%)。

2009年の国連の人間開発指数では182カ国中173位で最貧国の一つです。また2007年から2009年の勤務中に5回もクーデターが起こった政情不安なところです。そこでは、日本では考えられない、他のアフリカ勤務国でも大同小異で起きている「アフリカの縮図」的な出来事をご紹介します・・・・。

■2007年7月末:

日本時間(深夜)0:30(ビサウ時間16:30)、突然の電話でした。

「裕(ひろ)、日本での本国休暇中こんな時間に電話してごめんなさい。大変な問題が発生した」

声が上ずって、かなり興奮したアメリカ人の部下のジャン・マルタンでした。

「構わないよ。どうしたの?何かエマージェンシー?」

「そう、今日の午後、製材会社の男が、勝手に、WFP(国連世界食糧計画)の倉庫に製材機をトラックで乗り付け、置いて行ったんです。彼によると、倉庫は自分が以前に使用していたと話している。製材機が邪魔になって、WFPの食糧の積み出しに支障が出て相当に困っている。どうしたら良いか大至急、指示してください。」

「それは大変だ。先ず、第一に、外務省の国際協力局長のシルバ氏に連絡を取って、WFPの倉庫は治外法権である旨を伝え、なん人もWFPの許可を得ずして倉庫に入ることは出来ないことを本人にも伝えてください」

「了解。そのように、行動します。」

WFPの倉庫
(WFPの倉庫の写真)

次の日18:00(日本時間)また、ジャン・マルタンよりの電話。

「シルバ氏は不在のようで、連絡がつかない。製材会社の男と治外法権の説明をしたが、男はジョッカ・ピメンテルと言い、12年前まで、現在のWFPの倉庫の場所で、製材会社をしていて、その後、事業がうまくいかず、ポルトガルへ出稼ぎに行っていたが、先月ビサウに帰って来た。再度、ビジネスを始めるので、製材機を置いたわけで、倉庫の使用権利は自分の方にあると主張しています。政府との倉庫の権利に関する契約書も持っていると言っています。どうしたら良いですか?」

「先ずWFPと政府の倉庫に関する契約書のコピーを彼に見せてください。WFPの契約書の方が優先される筈です。12年前と現在の契約の違いがいかに大きいか彼にでもわかる筈でしょう。兎に角、シルバ氏に連絡を取って、私が帰るまでに製材機を倉庫から外に動かすように、してください。」

■8月始め:ビサウにて

ビサウの港
(ビサウの港の写真)

事務所へ戻って、ジャン・マルタンと会議。

12年前まではジョッカが主張するように、彼は、倉庫の脇で、製材の仕事をしていたことが確認された。
その当時、倉庫は政府が管理していてWFPの食糧も政府が管理していた。ところが、政府の食糧管理が杜撰で、40%(WFPの許容範囲は3%以下)近くの食糧がどこに行ったか不明で、その問題がWFPのローマの総会で問題になり、11年前より、WFPが政府に代わって倉庫管理を始めた。その後のWFPの倉庫への投資額は塀を造ったり、屋根を直したりと半端なものではなかった。

ジョッカのことは調べて見ると、札付きの犯罪者で、事業がうまくいかなかっただけでなく、銀行強盗をして、ポルトガルへ逃げていたことが分かった。それだけでなく、前政権の大蔵大臣との個人的な結びつきが強く、シルバ氏も、あまり、強く出れない状況であることが、判明した。シルバ氏は、法務省と話しをつけて、其のあとに、強制撤去という方向性を進め、あまり、わたしがジョッカとは近づかないことを勧めた。

ところが、1か月たっても2カ月たっても、問題は一向に進展せず、逆に、法務省からは、ジョッカ個人のビジネスを尊重することが重要で、倉庫をWFPが管理するのは違法のような判断が出てきました。同時に、WFPが別件で雇っていた弁護士が二重契約で、ジョッカ側につき、WFPのローマに、E-メールで、国際機関が個人のビジネスを妨害していると問題を歪曲し複雑にしたり、
現地の新聞にWFPと外務省がジョッカの仕事を妨害している旨の記事の載せたりと悪質な行動を取り始めました。

私個人にも嫌がらせをするようになりました。外務大臣、農務大臣、文部大臣とWFPの仕事を直接関係している大臣それに、司法長官と会議をしましたが、皆、猫の鈴に首をつけるようなことが出来ないようで、「WFPの立場は明白で、問題なのはジョッカだ」とは言うのですが、なかなか、具体的なアクションを取ってくれませんでした。

ビサウのマーケット
(ビサウの町のマーケットの写真)

カシュウ・ナッツ
(ビサウの最大の輸出品のカシュウ・ナッツの写真)

唯一の解決方法は首相に真実を話し、首相に決断をするようにお願いするしか方法がありませんでした。

5か月後の12月、ようやく、首相とアポが取れ、ジョッカの不当性とWFPの正当性を説明することが出来ました。首相は警察長官に、製材機を撤去するように指示しました。撤去は翌年の1月にようやく終わりました。

この事件は、残念ですが次のことを教えてくれました。

―誰も、結論を出したくない社会(ネポティズムー身内主義、なれ会い社会)
―犯罪者が大手を振っている社会(ビサウには1998年以来、刑務所が無く、2010年に完成予定)
―論理が通じない社会 (過去と現在の区別がつかない)
―セキュリティの会社が頼りない社会(簡単に誰でも倉庫、事務所へ誰でも入れてしまう。
 何度となく、セキュリティの会社にセキュリティとは何かを説明し、ノートに必ず記帳するように訓練し、
 荷物検査も徹底するようにし、少しは良くなったのですが。。。)
―法事国家ではない社会・人治主義社会

さて、もう少し、いろいろなビサウでの経験を述べたいのですが、紙面の関係上、今回はこの辺にて終了します。
次回はアフリカで、首都の勤務ではなく、初めて経験した地方事務所のアンゴラを中心に「中国とアンゴラ」に迫ってみたいと思います・・・。<第一話へ> <第三話へ>


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 <筆者近影>
 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)
 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表
 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞
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