最新記事
43

1200人が別れを惜しむ 「井上ひさしさんお別れ会」開催

井上ひさしさん さようなら!(7月1日 丸の内 東京会館)

お別れ会ss


祭壇ss2010年4月9日に75歳で亡くなった井上ひさしさん(1960外仏)のお別れ会が7月1日、丸の内 東京会館ローズルームに1200人余が参加して行われた。井上さん愛用の「遅筆堂原稿用紙」を写した大スクリーンの真中に井上さんの、にこやかな笑顔の写真が飾られ、その下に400冊余の著書が並ぶシンプルな祭壇。会場には、文壇、演劇界などの関係者1200人が溢れんばかりとなり、偉大な劇作家、作家井上ひさしさんを偲んだ。お別れ会はNHKの古谷アナウンサーの司会で進められ、年代の違う3人が「送ることば」を述べた。

小説家で文芸評論家の丸谷才一さんは「一貫して権力への反逆、常に弱者の味方。私たちは井上ひさしの芝居を見物し拍手喝采したことを後世の日本人に自慢することになるでしょう」。(全文は↓)

大江さんノーベル賞受賞作家の大江健三郎さんは「井上ひさしさんの晩年をみたした演劇の仕事は質、量ともに驚くべきものであり、劇場に通う楽しみを再発見させてもらいました。わたしは、これからひさしさんから頂いたメモを机に置いて、晩年の仕事を準備します。もう彼に読んでもらうことはできませんが、井上ひさしに向かって書きます」。(全文は↓)

演出家の栗山民也さんは「井上さんは舞台の顔合わせの時に、いつもこうおっしゃってました。一字一句間違えないようにしゃべってください。井上さんの周りには、いつも笑いがありました。その笑いは、私たちに明るい勇気を与えてくださった」。(全文は↓)

「献杯」はホリプロ創業者の堀威夫さんの発声で行われ、参加者同士が懇談。上智関係者は、ピタウ大司教、石澤学長。ピタウ大司教は「上智大学はカトリックの大学でカタいと思われがちですが、井上さんのような創造力に富んだ卒業生が育ったことを嬉しく思います」と話していた。

堀さんss
そして井上さんの生前の映像がスクリーンに映された。最初に井上さん自身が「今日は宜しくお願いします」と言うシーンから始まると会場がどよめいた。稽古場での演出風景、談笑しているところ、書斎での執筆シーンなどが続き、最後に「みなさま ありがとうございます。“ありがとうございます”ということばしか見つかりません。井上ひさし」という自筆の文字がスクリーンに映し出されると、参加者の間からすすり泣きの声がもれた。

遺族を代表して妻の井上ユリさんは「井上ひさしは天才です。丸谷才一さんは『父と暮らせば』を戦後日本最高の戯曲だと書いてくださいましたが、私は戦前も含めて最高と思います。ひさしさんは本当に天才でした。でもとても謙虚で、私がそういうと、外で言うなよといつも言うのでした。でも、もう止める人はいませんからどんどん外で言います。そして、天才の仕事を次の世代に引き継いでいきます」と述べた。(全文は↓)

井上さんへの「献歌」として、最後の戯曲となった「組曲虐殺」の作曲とピアノの生演奏を担当した世界的ジャズピアニスト小曽根真さんがピアノを演奏。「東京裁判3部作」のカーテンコール曲「番外マック・ザ・ナイフ」を前列に集まった大竹しのぶさん、三田和代さん、辻萬長さんら女優や俳優の皆さんが全員で合唱して、井上さんと別れを惜しんだ。


井上ユリss※井上ユリさんの送ることば(全文)
「ひさしさんとは23年間一緒に暮らしました。楽しい、楽しい23年でした。皆さんだって、ひさしさんと一緒にいると楽しかったでしょ。わくわくしたと思うんです。そんな楽しいことを日常生活にしてしまったバチが今当たっていまして、この3カ月間はホントにつまらないです。つまらないということを毎日感じています。井上ひさしは天才です。ひさしさんは自分の仕事に確かな自信を持っていました。でも、何しろ謙虚な人です。やたら謙虚です。私があんまり「天才」って言うと、外で言わないでくれ(笑)、大きい声で言わないでくれって、うろたえていました。例えば、ひさしさんはチェーホフが好きでした。だから、「現代の近松」だとか「日本のシェークスピア」と言われると、それはそれで嬉しいんですが、どうせなら「日本のチェーホフ」って誰か言ってくれないかなあって、つぶやくんです。(笑)好きなので、3年前「ロマンス」というアントン・チェーホフを主人公にした芝居を書きました。これを書いている最中のある日「おれ改名しようかな。イノウエ・アントンってどう?」(笑)って言うので、うちの中でしばらくアントン君って呼んでいました。ロマンスが完成して、私が「でも、ひさしさんの方が面白いじゃん。もしチェーホフが今生きていたら、向こうの方が改名したがるかもしれないね。ヒサシ・オクレレビッチ・チェーホフかな」(笑)ひさしさんは満更でもなさそうでしたが、やっぱり「皆には言わないでくれ」(笑)書評や劇評は、勿論、誰でもそうでしょうが、ひさしさんも気にしていました。でも、勿論、マトを突いているということが一番大事で、ほめる、けなすっていうのはその次でした。当たり前のことですが、的確に褒められるのが一番好きでした。中でも、特に一番喜んだのは、丸谷才一さんが『父と暮らせば』を批評してくださった時に「戦後日本、最高の戯曲」と書いてくださいました。この時はすごく喜んでいました。私は、水を差すつもりはないんですが・・・丸谷先生ごめんなさい・・・確かに戦後最高なんだけれども、戦前を入れても最高じゃないかと・・・(笑)(拍手)言いましたら「それは外で言うなよ」(笑)。でも、もう止める人はいません。外で大きい声で言います。井上ひさしは天才です!私たち遺族、こまつ座、ふるさと山形の川西町の遅筆堂文庫、それから来年5月に完成する「山形シベール井上ひさし未来館」をひっくるめて、私たちは、皆さまとご一緒に、井上ひさしという天才の仕事を、しっかりと次の世代に、未来へ引き継いで参ります。皆さん、どうぞお力をお貸しください。本日は有難うございました。(拍手)

祭壇ss※丸谷才一さんの送ることば(全文)
皆さんもそうだと思いますが、思い出すことが多い。人柄が魅力的だったし、口にすることがいちいち中身があって、愉快で面白かった。しかし私がこの席で語らなければならないのは、思い出話ではなくて、日本文学史における井上ひさしの位置づけでしょう。彼は文学の伝統をどう受け止め、それをどんなふうに新しく展開したかということでしょう。

かつて平野謙は、1930年代初頭の日本文学について「三派鼎立の形成」という眺望を行った。芸術派と私小説とプロレタリ文学の3つの流派が並び立っていると見た。これはまことに明快にして正確な図式でした。この図式は80年後の現在の日本文学にもあてはまるのではないか? 芸術派にあたるのはモダニズム文学で、代表は村上春樹の前衛的で清新な、アメリカ批評の用語で言えばロマンスでしょう。私小説は、作家身辺の事情に好んで材を取るという意味で大江健三郎ではないか。そしてプロレタリ文学を受け継ぐ最上の文学者は、井上ひさしに他ならない。彼の父はプロレタリア文学系の作家志望者で、あの戦争に対する反省と、戦後民主主義によって育ちました。その志は一貫して権力に対する反逆であり、思いは常に弱い者の味方だった。しかし昭和初年の先輩たちと違って知識人が大衆を指導するという姿勢はいささかもありませんでした。

彼は高い知性と教養の持ち主だったけれども、いつも大衆の一員であった。だから純文学とか大衆文学とかいう分類は全く念頭になかった。こうした態度が典型的に示されるのは、彼がもっとも力をこめて書いた分野、戯曲においてであります。
ひさしさんは、丁度、シェイックスピアが言ったように、あるいはブレヒトと同じように「知識人は知識人なりに楽しめ、大衆は大衆なりに面白がることが出来る芝居」を書いた。彼の文学は多層的であり多面的である。その分だけ豊かで充実していました。ここで見落としてならないのは、この劇作家の作中人物に対する「優しさ」であります。
最後の作品『組曲虐殺』において、特高刑事たちは民衆の敵としてではなく、こういうわびしい稼業で暮らしを立てるしかない同情すべき哀れな庶民として扱われている。それは、かつての素朴で単純なアジプロ演劇と鋭く対立する心の広さと寛容さのしるしであった。井上ひさしの世界においては、敵役をいたわることと巧みな作劇術とはきれいに両立していた。そしてその芝居作りの方法は、アジプロ演劇の幼稚さと対立するだけではなく、歌舞伎のご都合主義や陰惨な悪趣味をも徹底的に退けている。

例えば『雨』という11幕の戯曲などは、権力に対する烈々たる悪意と激しい敵愾心を基調としながら、奇想天外な手法、派手な事件の連続、効果的な舞台面、流れるような場面転換で、観客を存分に楽しませる見事な一晩芝居となっている。
いわゆる「新歌舞伎」は歌舞伎の背景である前近代が終わってしまった時代において、坪内逍遥から真山青果を経て三島由紀夫に至るまで、営々と努力を続けたけれども、彼の『雨』と並ぶほどの目覚ましい成果は遂にあげることが出来ませんでした。
このような傑作が可能であったのは、この有能な劇作家の内部に俊敏で鋭くて賢い批評家が潜んでいて、あるいはプロレタリア文学を厳しく批判し、あるいは新歌舞伎に対して、ぶつくさと不満を表明していたからでしょう。彼は常に「人の振り見て我が振り直せ」という聡明な文学者であった。

この批評家としての能力が昭和史という悲しい題材に立ち向かったとき、あの一連の歴史劇が生まれました。それは民族の愚行、一国民の犯した馬鹿げた行いをしめやかに嘆きながら、しかし、名作『父と暮らせば』がよく示すように、広島、長崎、沖縄、更には東京大空襲の被害者たち、総じて言えば満州事変から8月15日までの死者たちの分まで、
我々は幸せに生きなければならない。彼ら死者たちに対するそういう責任を今の日本人はきちんと果たしているかと問いかける作品の一系列であった。
その痛烈な問いかけを、ひさしさんは、例のおもしろい趣向、暖かい思いやり、笑いと涙、悲劇とコミックリリーフ、沢山の歌と踊りと一緒にして差し出した。これだけ華やかな劇作の才能は、竹田出雲だって黙阿弥だって持ち合わせていただろうか?
私たちは井上ひさしの芝居の初演や再演の小屋に行って見物し拍手喝采したことを、後世の日本人に対して自慢することになるでしょう。

大江さん※大江健三郎さんの送ることば(全文)
井上ひさしさんの晩年を満たした演劇の仕事は質、量ともに驚くべきものでした。劇場に通う楽しみを再発見しました。小説家井上ひさしは、壮年期の大きい傑作『吉里吉里人』に匹敵する長編を書くことはもう断念したのかという思いが私にはありました。しかしその死の後に500ページに及ぶ新作小説『一週間』のゲラが届きました。それは井上ひさし晩年の傑作です。舞台でなじみのどんでん返しの最大規模のものです。

これは、日本兵のシベリア抑留の話で、ありふれた「常民」に見える小松修吉という中年男がソ連全土に広がる収用所の日本人捕虜60万人の状況改善を求めて立ち上がります。
修吉の知恵と不屈の実行力により、極東赤軍160万を相手にしての、たった一人の戦いは、まさに井上ひさし一流の「奇想」を武器とします。この奇策縦横で意外性と笑いも言葉も巧みにも溢れたエンターテイメントの魅力は実作で味わって頂くとして、私は、修吉の働きぶりと心情に、井上ひさし晩年の人間観が深く表現されているのに打たれました。
人間は辱められてはならず、人間を辱めてもならぬという確信です。

井上さんが最後の病床で私の小説『水死』を読まれてのメモに、次の1行がありました。「圧倒的なアカリくんの存在。真に人間的な事柄以外では妥協しない」この小説で私は、障害のある息子が友人の遺品の楽譜に熱中して、マジックで書き入れたのに逆上し「キミは、バカだ!」といってしまいます。『水死』の終わり近く、アカリと父親に会話は戻りますが、井上ひさしはゴマカシを見抜いていました。アカリにとって音楽こそが真に人間的なことがらだ、それ以外では和解しない。そこを外していいのか? 実際には凍りついたままの息子との関係を解きほぐさなければならず、それを小説で確かめもするでしょう。
井上さんのメモを机の前に置いて、私は晩年の仕事を準備します。もう彼に読んでもらうことはできませんが、井上ひさしに向かって書きます。いつまでも、ありがたいつきあいでした。

栗山さん※栗山民也さんの送ることば(全文)
舞台の顔合わせの日に、いつもこうおっしゃっていましたね。「一字一句間違わずにしゃべってください」。一つの解答などないから、ペンをとる。作品が出来上がった後も、あの場面は一体何を言いたかったのかなどと、まるで人の作品を見るかのように複数の問いを自分の中に持ち続けていました。そして、その問いは新しい作品へとしっかりつながれていきました。一つの答えを求めるため作品を書くのではなく、問い続けるために作品を書いてこられたのです。今ここに、たくさんの言葉でつづられた、沢山の物語がぼくの目の前に並んでいます。これは、これからのぼくたちが次の世代に、いつまでも語り継いでいかねばならない「フツーの人間たちのフツーの生活」を描いた井上さんの物語です。今の私たち、これからの人たちにとって、確かな大切な財産です。一字一句間違わぬよう井上さんの声を伝えていきます。
人はもともと、あらかじめその内側に「苦しみ」や「悲しみ」を備えて生まれる宿命です。けれども「笑い」は違います。「笑い」というものは、人の内側に備わってはいないものです。だから外から、人が自分の手で自分の外側で作り出し、たがいに分けあい持ち合うしかありません。井上さんは『ロマンス』の中でこの言葉を言っています。
井上さんの周りには、いつも笑いがありました。その笑いは、どんなに苦しくつらい時でも、誰もが元気に生きていけるのだという明るい勇気と覚悟を与えてくださった。ありがとうございました。井上さんに送ることばと致します。大入りの客席で千秋楽を迎える井上さんに心から拍手を送ります。お疲れさまでした。

スポンサーサイト
0

Comment

Comment Form

Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
0

Trackback

Trackback URL

検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
Return to Pagetop