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第24回(2014年度)「コムソフィア賞」受賞者 師岡文男さん記念講演(講演録)

第24回コムソフィア賞授賞式 特別講演会
「国際スポーツ界で活動する力を育んでくれた上智大学」
登壇者:師岡文男さん(1976文史卒 上智大学文学部教授・保健体育研究室室長)
日時:2014年6月28日(土)13:30~17:00(特別講演は14:30-16:00)
場所:JR四ツ谷駅前・主婦会館プラザエフ地下2階、多目的スペース・クラルテ

2014年度の「第24回コムソフィア賞授賞式」では、
◎コムソフィア賞:師岡文男(もろおか ふみお)さん(’76文史)
◎コムソフィア濱口賞:安田菜津紀(やすだ なつき)さん(’10総合人間教育)
のお2人が受賞されました。

今回は、授賞式後に開催された、コムソフィア賞を受賞された師岡文男さん(’76文史)の特別講演会の講演録をお伝えします。

※第27回マスコミ・ソフィア会総会・第24回コムソフィア賞授賞式(速報)については「こちら」を御覧ください。
※第24回コムソフィア賞濱口賞を受賞された安田菜津紀(やすだ なつき)さんの講演録は「こちら」を御覧ください。

第24回コムソフィア授賞式安田1
写真:右から師岡文男氏、安田菜津紀氏

「スポーツアコード」
 受賞の理由の一つが国際スポーツ界での活躍ということでしたが、20年前から毎年「スポーツアコード」という組織の総会に出席し日本人初の理事に選ばれました。3大陸40カ国以上に協会のある92の国際スポーツ団体が加盟している世界最大の国際スポーツ団体です。このスポーツアコードの国際スポーツ会議の中でIOCの理事会が必ず開かれますが、そこに取材に来ている日本の取材陣のおよそ6割から7割が上智の卒業生です。新聞学科卒業生だけではなく、さまざまな学科の卒業生です。

 この頃は、私の教え子とも出会うようになりました。そういった方々にもマスコミ・ソフィア会に参加してもらって会を盛り上げることも考えたいと思います。

「私がマスコミ・ソフィア会に参加したのは」
 BS-TBSの番組審議委員長を10年ほど務めました。スポーツ番組のプロデュースとか幾つかのテレビ番組の制作を時々お手伝いをしています。私は上智の文学部史学科の卒業ですが、学生の時に、新聞学科のテレビセンターで開講されていた「テレビ制作」というデ・ベラ先生の授業を受講していました。その時の仲間が様々なところで活躍していますが、そのネットワークが今でも生きていて、様々な情報を得ています。

 先ほどの賞状に「フライングディスクを日本で初めて紹介し」とありましたが、実は私が初めてではなく1960年代後半に日本に入ってきて私が高校生の頃から日本にありました。実は、本日、文部科学大臣杯・全日本選手権の2次予選をやっていて、上智のチームが勝ち上がって静岡で試合をやっています。こういう日にフライングディスクやスポーツの話ができて本当に良い機会を与えてくださったと思っています。

「筑波大学へ」
 私は史学科を卒業して高校の社会科の先生になるつもりでしたが、大学4年のとき、筑波大学の先生との出会いがありました。そして、筑波大学に他分野からの学生も受け入れる体育学の開かれた大学院ができるというので、そこに私は飛び込みました。そこで修士号をとって、本場アメリカに博士号をとりに行こうとしていた矢先に、オールソフィアンの集いがあり、足を運びました。そこで、もう亡くなられた体育の伊東明先生から「上智の卒業生でスポーツを勉強している奴は非常に珍しい。戻ってこないか?」という話がありました。

 正直言って私は戻る気はありませんでしたが、筑波の指導教授に相談したところ「大学というところは毎年求人があるわけではない。それは何かのご縁であるし、戻ってこないかと言われている時は素直に行く方が良い。上智ならいつでも留学ができる」と言われました。勿論、いつでも留学ができる訳ではなかったのですが、勤めて7年後に在外研究許可を頂いて客員講師の身分でイリノイ大学レジャー研究学科で勉強することができました。

「フラインングディスクとの出会い」
 上智大学に体育教員として赴任した1979年はバレーボールを教えていました。当時はどこの大学でも2年間体育必修という時代で、学生に種目選択権はなく私はバレーボールを教えていました。そうすると、バレーボールが好きな子も嫌いな子もいます。小中高からやっている子もいるのでレベルの差もある。大抵中間ぐらいに合わせるのですが、出来る子も出来ない子も欲求不満になってしまいます。爪を長く伸ばしている女子はボールに触るのも嫌だと言う。

 これで大学の必修授業として良いのかと悩みました。たまたま近くの本屋で「フリスビー」の本を見つけました。当時は私もフリスビーは犬が咥えてるものと思っていましたが、スポーツとして世界選手権が開かれており、しかもアメリカのローズボウルという8万人収容の大スタジアムが満員になるというのです。あの当時、フリスビーは一家に一枚くらいはある遊び道具で、私の家にもありました。本にはアルティットという7人制でパスワークをして相手のエンドゾーンでキャッチが出来ると得点になる種目があり、これならば1枚のディスクで大勢が遊べるなと思いました。

 今日はバレボールはやめて新しいスポーツをやろうと言ってやってみたら、スポーツが嫌いな子が目の色を変えて熱中し始めました。今まで習ってきたスポーツは全部ダメだったけど、これは新しいし自分にもできそうだと思ったようです。

 結局、人間は感情なんですね。出来ると思えば出来るが、ダメだと思うとダメになる。みんながこれなら出来そうだと確信しました。実際力がなくても飛ぶんです。5歳児で43メートル、102歳のおばあちゃんが9メートル飛ばしたという世界記録があるんです。ゼロ歳から百歳まで出来る生涯スポーツです。何よりもスポーツ嫌いな学生が夢中になってくれました。

 その頃の体育会系の学生たちは「こんなスポーツで、体育やるんですか?」と斜めに見ていましたが、いざやってみると、なかなか奥が深くて戦略性もあって運動量もある、これは今までやってきた球技と違ってなかなか面白いと夢中になり、先生また来週やりましょうということになりました。学習指導要領に縛られないのが大学の授業なので、翌年1980年から実技で8コマあった私の授業を全部フライングディスクにしてしまいました。そしたら上司に怒られました。それで先生方を集めてやっていただいたら運動量もあるし面白いと認めてくれました。

「スポーツとは?」
 我々日本人はオリンピックや国民体育大会の競技、学習指導要領に載っているものだけをスポーツと思ってきたましが、実はそうではありません。「SPORT」はラテン語で紀元前5世紀からある言葉で「普段と違うところへ心と身体を運ぶ」という意味です。SPORTを英語の辞書を引いてみると、初めに「運動競技」と出てきますが「気晴らし」「慰み」「暇つぶし」「ふざける」なんていう意味も出てきます。普段やらなければならない仕事から、フッと心と身体を移して楽しむことがSPORTなんです。

 その証拠に、IOC(国際オリンピック委員会)の公認スポーツに「チェス」と「ブリッジ」が昔から入っているんです。「西洋将棋」と「トランプ遊び」は文化活動でスポーツではないと思いがちですが、しかし、れっきとした「マインドスポーツ」(頭を使うスポーツ)なんです。身体を使うことばかりがスポーツではないのです。これが本来のスポーツの定義です。

 音楽を嫌いな人はいませんね。でもクラシック音楽を好きな人とヘビメタを好きな人は多分同じところにはいきません。でも「音を楽しむ」と言う点では同じです。しかしスポーツとなると非常に狭くとらえるので、私は不得意だ、私は好きじゃないと言う人が出てくる。ところが「チェス」も「ブリッジ」も「アメリカンフットボール」もスポーツだということになると、スポーツ嫌いはあり得ません。そういう幅広さのある文化なんです。

「日本人のスポーツ観は?」
 では何故日本ではスポーツ観が変わってしまったのか?それは「富国強兵策」の影響です。明治の時代に「学制」がしかれて初めて西洋流のスポーツが入って来た時に「楽しみとしてのスポーツ文化」も勿論入ってきたんですが、その当時の日本は「西欧に追いつき追い越せ」で、青少年を鍛えて軍事力をまず高め、労働力を向上させて「殖産興業」で国を豊かにして西欧に肩を並べないと植民地にされてしまう、ということで、スポーツも「教練」が目的になってしまったのです。身体を鍛えるということも大事な教育ですが、まず兵隊さんや工場労働者になれる頑健な肉体を作ることが目標とされたのです。「ナニクソ」頑張るぞ、負けないぞという「勝利至上主義」・・・これも若い頃は良いのですが、年をとってからは続けられません。

 スポーツはそれだけではない世界なんです。本来はもっと幅広く、いろいろな目的別に全ての人々が関われる文化として発達してきたのがスポーツなんです。イギリスではパブリックスク-ルで、いわゆるジェントルマンを育てる教材がスポーツなのです。しかし当時の日本にとってスポーツは手段にすぎなかったといえます。

「プレイヤーとは?」
 プレイヤーっていう言葉がありますね。これを日本語に訳すと何でしょう。辞書には「選手」と出てきます。でも本来は「遊び手」ですね。下手だろうが上手い人だろうが「遊び手」には全員がなれるんです。それが西欧の文化です。ところが当時の日本では「規定のコート」で「規定のルール」で「規定のユニフォーム」を着てやれるのはエリートだけでした。だから「選手」が訳語になってしまったのです。そうするとスポーツは若い時だけのもの、非常に優れた人だけのものという狭い文化になってしまいます。音楽、芸術などは全ての人々の文化であるのに対して「スポーツ」は見ることはできるが、実践できる人は少ない、非常に狭い文化だったのです。

 私の場合、それを変えてくれたのが「フライングディスク」であり、その時夢中になってくれた「学生」です。私も最初は気分転換程度に考えて、バレーボールとは一寸違うスポーツをやろうと思っていただけなのですが「これは面白い」と言って学生たちが「チーム」を作りました。チームを作られたら、これは普及しないわけにはいかないと思い、日本協会に乗り込んで行って普及活動をして、今や「文部科学大臣杯」をいただけるところまで普及しました。しかしそれでも「マイナースポーツ」で遊びみたいなもんだねと言われ場所も貸してもらえない。それで国際的普及に乗り出しました。

「ワールドゲームズの種目に」
 オリンピックに採用されるのは大変難しいので、まずは「ワールドゲームズ」に入ろうとしました。これは、第2のオリンピックと言われて、オリンピックにまだ入っていないスポーツの競技大会です。しかしIOCが後援している大会なんです。その頃、フライングディスクの世界連盟の理事になっていたんですが、そんな所に入るのは無理だよ、と他の理事に言われましたが、とにかく「代表権」を俺にくれ、旅費は自分で出すからと言って一人で国際スポーツ団体総連合(スポーツアコード)総会に乗り込んで行きました。

 そしたら、そこには「陸連」がいる、「水連」がいる、「ラグビー」がいる、全ての国際スポーツの会長と事務総長が集まる会議なんですが、日本人の姿が全くない。日本人は大体副会長止まりで「空手」だろうが「柔道」だろうが会長はみんな外国人です。

 これは「言葉」の問題と、日本の協会の会長さんは大抵、政治家か、お金持ちを担いじゃうんで、そのスポーツのことを良く判っていないのに会長になっている場合もあるんです。だから、国際会議にに連れて行っても全く外交にならない。偉すぎちゃって、食事の時でも丸テーブルを全員日本人だけで囲んでいるのでは、全く外交にならない。これでは国際団体の会長に選ばれる訳がない。こういうことだから、日本人が勝つとすぐルールが変わってしまうという理由もわかりました。

「日本でワールドゲームズを!」
 ただ、その時、私がたった一人の日本人だったことが幸いして「お前は日本人か?日本でまだ、ワールドゲームズをやったことないから招致しろ」と言われたのです。これは正に「風が吹けば桶屋が儲かる」で、単にスポーツの嫌いな子を好きにさせたいという一念からはじめたフライングディスクの普及でしたが、世界の舞台に行ったら大きな大会を招致しろということになったんです。帰ってきて早速動きましたら横浜、大阪が手を上げました。でも、ワールドカッツプ、サッカーが来る前で、それに失敗したら何かやらなければいけないから「保険」にするというんですね。

 保険じゃ困るんで諦めかけたところに、たまたま秋田にいる友人が、ミネソタ州立大学秋田分校の学長として戻ってきたというので話をしたら、丁度、秋田こまち新幹線が通るが何もキャンペーンがない。秋田空港に大韓航空を呼びたいが、国際イベントのアイデアがないので是非やりたい、ということになりました。ワールドゲームズは冬のオリンピックくらいの規模です。約95カ国から4500人が来るというイベントです。

 実現までは、そう簡単ではなく、いろいろなドラマがありましたが、ワールドゲームズ秋田大会は大成功しました。これが私の「国際スポーツ界人生」の始まりでした。

 朝日新聞の「ひと」欄は甲子園に優勝でもしない限り載らないと思っていましたが、載ってしまいました。しかも同じ日に毎日新聞にも載ってしまいました。理由はスポーツはオリンピックだけじゃない・・・日本人はオリンピックや国体の競技だけがスポーツだと思っている人が多いが・・・実は、スポーツにはいろいろな種類があることをワールドゲームズ招致で皆に知らせた。それが面白いと言って記事にしてくれたのです。

「IWGAの理事に選出される」
 今年の4月、IWGA(国際ワールッドゲームズ協会)の理事選挙がありました。私はこれまで20年も総会に出席してきたのですが、日本人が理事になったことはありませんでした。最初の会長は韓国人で「テコンドー」の会長でした。それ以来アジア人が理事になったことはなく、今回は3人の椅子を10人で争う選挙でしたが、選挙演説で「国際組織にアジア、アフリカ人がいないのはおかしい」という話をしたところ2位で当選しました。これは私の能力というよりは20年もしつこく通ったことの成果です。「石の上にも3年」と言いますが正にその通りです。学生の諸君にも言いたいのが「1回や2回の失敗ノーであきらめてはだめだ」ということです。

「口偏にプラス」
 私は「口偏にプラス」を座右の銘にしています。「口偏にプラス、マイナス」で「吐」という文字になりますが、口偏にプラスだけですと夢が「叶う」という字になります。人の悪口ばかり「吐」いているとマイナスばかりですが、「もしかしたら出来るかもしれない」と希望を捨てずにやっていると、いつか100%ではないかもしれないが夢には近ずける。「Dreams Come True」です。

IWGAに通っていると、IOCとの合同理事会で10人テーブルでIOC会長を向こうにして討論に参加することも出来ます。私は、言いたいことを言う性格なので、何でも意見を言うことが出来るようになりました。

IOCサマランチ会長
写真:IOCサマランチ会長(左:当時)と(ケベック)世界スポーツ・フォー・オール会議にて(2000年5月22日)

「IWGAとはどんな組織?」
 国際ワールドゲームズ協会には、オリンピックで採用されていない空手、ボウリング、水上スキーなどが加盟しています。トライアスロン、ビーチバレーボール、バドミントン、ラグビー、ソフトボール、野球などもIWGAにいたんですが、ここからオリンピック競技になりました。この中に「フライングディスク」を入れて貰って、IOCの準公認競技にまでもっていきました。

 IWGAに加盟するためには「スポーツアコード」(国際スポーツ団体総連合)のメンバーになることが必要です。40カ国以上に協会がある92の国際スポーツ団体が集まっています。ここにはIOCに公認されている団体と公認されていない競技の団体が加盟しており、そのほかにユニバシアード、パラリンピックなど競技大会の主催団体16も合わせて108の団体が加盟している大きな団体がスポーツアコードです。

 その会議にはIOCの会長は必ず来て挨拶しています。私は、ここの理事も務めました。そんな関係の中で、亡くなられたサマランチ会長ともお話をする機会を得ました。国際競技団体の会長たちともお話をしたり、総会で発表するチャンスもいただきました。ロゲIOC前会長とも何度かお話をしました。

「オリンピック招致活動」
 私がやってきたのは、たいした「招致活動」ではありませんが、国際的な団体の中にいるとIOC委員とも知らぬ間に友だちになっています。

 今日も懇親会がありますが、懇親会は私の得意の舞台で、10人テーブルに着席というときに、この人の隣にと思うところにスーっと座っちゃうんです。「何だこいつは」という顔をされることもありますが、追い返すわけにもいかず、2時間の食事の間、ずーっといろんな話が出来ます。そして翌年また会うと「おうお前また来たか」ということで次第に仲良くなります。こういう場合には、(Know Whom)いかに相手のことを知っているかが大事で、今回は、2020年のオリンピック・パラリンピック招致のお手伝いをさせていただきました。

 私が一番働けたのは、マドリードに入れた票を、マドリードがもし負けた時に、東京に入れてくれといういう活動です。結局、台本通りになったんですが、私がお願いした人の何人が何票、東京に入れてくれたかは判らない世界です。かなりのIOC委員に接触しました。JOCの竹田会長、当時の水野副会長が一番ロビー活動をしていました。議員連盟も努力されていましたが、やはり古くからIOC委員を知っているかということが大事です。日本というところは、招致が決まるまでは、お金が出ない、予算がでないので国際会議にはほとんど日本人は来ない。いろんな会議がありますが、日本人はほとんどいないというのが現状です。たまたま私は「研究」ということで参加して今日があります。

「あまりにも酷いマナー」
 9月8日の早朝、東京商工会議所で2020年オリンピック・パラリンピック開催地決定を迎える会が招致委員会と東京都共催で開催されました。私に講演せよというので私は、2016年の開催地決定の時の酷いマナーについて話しました。

 日本はリオデジャネイロに負けました。あの時に「チェッ」と言ってパンフレットを床に投げ捨てて席を立っていった国会議員と都議会議員の方々の姿が海外に映像として流れてしまいました。そのマナーだけは今回、もし負けても絶対やってくれるなと話しました。

 もう一つの話は、猪瀬知事が出陣式で挨拶していた時「イノセー!もし、しくじったら、ここで腹切ると宣言して行け!」と都議会議員がどなりました。何て品がないんだろうと、これから心を一つにしてブエノスアイレスへ行こうという時に、これはないだろう!という話をしました。皆シーンとして聞いていました。

「オリンピック憲章を読もう」
 そもそもオリンピックは何のためにやるのでしょう?オリンピックを使って何かをやろうと言う前に、オリンピックとは何かを知るべきです。残念ながら「オリンピック憲章」を読んだことがある人は少ないと思います。今日の皆さんには「釈迦に説法」かも知れませんが「オリンピック憲章」を配りましたので是非読んでください。

 「オリンピズム」とは人間が生きるための哲学である。良い人間としての生き方を探すのが「オリンピズム」であり人種・性別・宗教など、ありとあらゆる差別をなくして「スポーツ・フォー・オール」、競技者だけでなく全ての人がスポーツを通じて交流し平和な世界を作る。それがオリンピックの理想です。そのためにやるのが「オリンピックゲームズ」で、競技大会は単なるシンボルの大会に過ぎない。「オリンピック憲章」にはそう書かれています。

 もう一つ、面白いことがあります。国別のメダル獲得ランキングリストがありますね。日本がメダルを幾つとったとか・・・。あれを発表してはいけないと書いてあるんです。マスコミがやるのは仕方がない。IOCや組織委員会は発表してはならないと書いてあります。日本がメダル幾つで、中国より上だとか下だとか、そういうことはやるべきではありません。そのメダルをとった選手の栄誉をたたえて国旗を掲げ国歌を流しますが、国をたたえているわけではないのです。それがオリンピズムだと「憲章」にちゃんと書いてあります。そこを熟読すべきです。

 今週の月曜日、552の大学が組織委員会と連携協定を締結する式典がありました。私も裏方で動きましたが、こんなに集まるとは思いませんでした。しかし、これから大学で学生に何を教えるのかが大切です。6年後に迫ったオリンピックで通訳で活躍したいとか、その他外国人に何かをしてあげたいとか、グローバル人材育成は大切ですが、やはり一番最初に「オリンピック憲章」を読んで、オリンピックは何のためにやるのかを知っていただきたいと思います。

「上智で学んだこと」
 私をこの様に育ててくださったのは、やはり上智大学だと思います。大きな影響を受けた1人目の先生は、亡くなられたジョン・マケックニー神父様です。英語学科の教授でしたが、毎年、夏休みの2ヶ月間、20家庭にホームステイしてアメリカを一周する旅行を企画してくれました。1ドル360円の時代です。私も、一生に一度の海外旅行だと思って応募して連れてって貰いました。

 いやー辛かったですね。一人一家庭で、英語漬けの生活で、一日目から帰りたくなりました。英語は正直言って不得意でした。しかし2ヶ月もいる間にはさすがに慣れてきます。また、英語学科の学生は仲間の前でしゃべるのが嫌で、仕方なく、みんなを代表してお礼の言葉を述べるのが私でした。もう酷い英語で恥ずかしく、穴があったら入りたい心境でしたが、それでも通じたんです。それが今の自信につながっており、あの旅行がなかったら、私の今日はなかったと思います。

 2人目はホセ・デベラ神父様です。テレビセンターの所長を務めながら、今の交換留学生の基を作られた先生です。デベラ先生に、学生国際セミナーという5大学が集まるセミナーに行きなさいと推薦していただき参加しました。その体験を基にして「上智国際セミナー」を作りました。私が4年生の時で、その後10年続きました。その頃、市ゲ谷キャンパスに「国際部」の学生が移ってしまい、四ツ谷キャンパスの国際色が薄れてつまらなくなった。これを何とかしたいと思い、日本人と外国人を同数集めて「上智国際セミナー」を作りキャンプやディスカッションををやったりディスコで踊ったりしたのです。この時、文部大臣に「来てください」と招待状を出したら、何と祝電を下さったということもありました。

「忘れられない体験」
 そして、私が史学科から筑波大学大学院に行く時に、史学科から「体育」の勉強をしに行くといったら普通なら指導教授は反対すると思いますが、尾原神父様は「お前に向いている」とおっしゃって推薦状を書いて下さいました。そして「上智にもどってこい」と声をかけていただいたのが保健体育研究室の伊東明先生で、おかげで上智大学に1979年に赴任できました。

 その年に、私の人生を変えたのが一つはフライングディスクで、もう一つはインドシナ難民の流出です。ポルポト政権に親を殺されて、孤児になった子どもが国境を越えてタイに逃げてきました。

 この時、ピタウ神父様が学長で、上智から一般ボランティアを派遣しようと道をつけて下さり、募金活動などいろいろなことをやりました。準備が整った時、第1陣の隊長をやってくれと言われ、教職員、学生と一般の方も一緒に現地へ行きました。最初は、孤児たちが慣れてくれるまでは大変でした。いろいろの苦労がありチームを作り、何とか第1陣としての役目を果たして戻ってきました。

 この時の体験は一生忘れられません。最初、上から目線で富めるものが貧しい人たちに施しをするような思い上がった気分であったのが、見事に打ち砕かれました。逆に孤児になった子どもたちから「生きる」ということを教わって帰ってきました。子どもたちは最初は慣れてくれませんでしたが、この時、私のスポーツ・レクリエーションが役に立ちました。英語が通じないので、ゴム跳びやカン蹴りなどをしていると一人二人と入ってきます。

 しかし、子どもたちは目の前で親を殺され、女の子はレイプされて命からがら逃げてきています。気が狂ったような状態や虚ろな目だった子どもたちが、やがて遊びを通じて変わってきました。次第に子どもらしくなっていきました。仲良くなると、今度は別れが辛かったです。貴重な体験をさせて貰いました。

 その後、マタイ神父様からヨーロッパ移動合宿ツアーの引率をやってくれと言われ、インドシナのボランティアキャンプから帰って10日後、今度はヨーロッパへ行き、イスラエルも聖地も巡らせていただきました。

「世界の現実を同時進行で体験」
 上智に赴任した最初の年度末に経験した凄い体験でした。インドシナ難民の現実と、ヨーロッパの現実、イスラエルの現実が1ヶ月の間に、同時進行で私の頭の中というか身体に入って来ました。世界の様々な現実を同時に知り感じることが出来たのです。これがあったからこそ、今日、及ばずながら、for others, with othersという言葉が自分の生きる道であり最高の喜びであることを実感しています。

 こういう体験をしたことをどこかで活かしたいと思い、私はスポーツの道で生かすことが出来たと思っています。しかしここからが始まりです。5年後にはワールドカップのラグビーがあり、6年後にはオリンピック・パラリンピックがあります。

「今後の目標」
 2020年の日本を予想すると、高齢者が増える、本当の意味で成熟社会になった日本にどんなレガシーが残るのか?そこを見据えながら上智の教育理念を生かしながら、6年後のオリンピック・パラリンピックの充実を目指したいと思います。

 この席を借りて、今日まで導いてくださった上智大学の恩師、先輩、学友、家族、全ての方々に感謝申し上げ、そして素晴らしい賞を頂きましたことに感謝致します。本当に有難うございました。(拍手)
(講演録起こし:磯浦康二 ’57文新)
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