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第24回コムソフィア賞・濱口賞受賞者 安田菜津紀さん講演録

日時:2014年6月28日(土)13:30~17:00
場所:主婦会館プラザエフ地下2階、多目的スペース・クラルテ
6月28日(土)13時30分より、「第27回マスコミ・ソフィア会総会」と「第24回コムソフィア賞授賞式」が、JR四ツ谷駅前・主婦会館プラザエフ地下2階、多目的スペース・クラルテにて、会員約50名の参加の下開催されました。

今回の「第24回コムソフィア賞授賞式」では、
◎コムソフィア賞:師岡文男(もろおか ふみお)さん(’76文史)、
◎コムソフィア濱口賞:安田菜津紀(やすだ なつき)さん(’10総合人間教育)
のお2人が受賞されました。

ここで、コムソフィア賞濱口賞を受賞された安田菜津紀(やすだ なつき)さん(’10総合人間教育)の特別講演会の模様をお伝えします。
※第27回マスコミ・ソフィア会総会・第24回コムソフィア賞授賞式(速報)については「こちら」を御覧ください。


第24回コムソフィア授賞式安田1
写真:右から師岡文男氏、安田菜津紀氏

伝えるということは何なのか?
 本日はコム・ソフィア賞濱口賞ということで名誉ある賞をいただきありがとうございます。2010年に総合人間科学部教育学科を卒業しました。本日は上智大学在学中のときのことを踏まえ、なぜこの仕事をしているのかを写真を通して皆さんにお伝えできたらと思います。
 
フォトジャーナリズムとは?
はじめに自己紹介させていただきたいと思います。フォトジャーナリストという仕事、耳慣れない仕事かと思いますが、いかがでしょうか。小学校中学校で「将来なりたい人?」と聞いても絶対に手が上がらない絶滅危惧種です。簡単に説明をすると、写真を通して、いま世界で何が起こっているのかというのを伝えて行く仕事です。

新聞社、通信社のカメラマンは撮影伝票をもらって、今日は安倍さんの会見に行ってきてくださいというように会社側がどこに足を運んで何を撮るのかを決める仕事です。しかし私たちのように大きなメディアに所属していないフォトジャーナリストは、何を撮るのかを自分自身の意思に基づいて決めていきます。

カンボジアへ行く
私がフォトジャーナリストになるきっかけになったのが、カンボジアに足を運んだことでした。
カンボジアという国。内戦を経てきている国。今でも地雷、貧困問題といった戦争の爪痕が根深く残っている国。この国に私が初めて足を運んだのが、今から11年前。2003年。高校2年生、16歳の時でした。

なぜ高校2年生の時にこの国に足を運ぶことになったのか。国際協力にすごく興味があったかといえばそうでもありませんでした。人助けがしたかったのかといえばそれも違いました。私の中で大きな理由になったのは、中学2年のときに父を失ったこと、中学3年のときに今度は兄を失ったことでした。

 家族とは何なのか。人と人との絆はいったい何なのか。たくさんの答えの出ない疑問が私の頭の中を渦巻いていた時でした。その時に国境なき子どもたちという団体が日本の11歳から16歳の子どもをアジアに派遣して取材をさせるという、一聞すると無茶ぶりなプログラムがあることを知りました。はじめは触手が動きませんでした。でもふと気になることがありました。まったく違う環境に生きている同世代の子どもたち。例えば路上生活かもしれない、例えば何かしらの事情で家族と暮らせていないかもしれない子どもたちは、どのような価値観を持って家族観を持って絆を結んでいるのか。全く違う価値観に触れることができれば、何か自分自身に答えをくれるのではないか、そんな自分本位な気持ちでこの国を訪れました。

トラフィックチルドレンに教わったこと
私が主に時間を過ごしたのは、トラフィックトチルドレンと呼ばれることもたち。訳すと売買された子どもたち。つまり人身売買の被害に遭った子どもたちです。内戦後、とくに農村部を中心に貧困家庭がたくさん生まれました。そこにトラフィッカーと呼ばれる人身売買業者が近づいてきます。お母さん、子どもたちを僕に売ってください。働きながら学校に行かせることができますから、と。

 売られた子どもたちは、その先でもちろん学校に行けるはずもなく、1日中路上で花やキャンディーを売らされる、物乞いをさせられる。女の子は売春宿に売られる。そうした過去を持った子供たちと一緒に時間を過ごしました。
 
普段は底抜けに明るい子たちでした。外から来た私たちをあっという間に輪に引き入れてくれる。しかしひとたび過去のことに触れると、表情が一変します。彼らの語る過去はどれも壮絶でした。自分自身の価値がお金に変わってしまった瞬間の話。彼らはよく自分の値段を覚えていました。6000円、5000円、あるいはそれ以下。売られていった先で、殴られる蹴られるの虐待を受けただけでなく、電気ショックまで与えられた話。13歳のときに売春宿に売られた時の話。

ただし、彼らが真っ先に話す話。それは、自分はこんなつらい思いをした、こんな悲しい経験をしたという自分の話ではありませんでした。自分は今こうして施設で食べるものがある、寝る場所がある。でも今頃、家族は何も食べられていないかもしれない、寝る場所がないかもしれない。自分は長男だから、長女だから、いち早く家族のためにつける仕事は何だろう。そのために職業訓練って何だろうと、まず最初に家族のことでした。自分自身がだまされてお金で売り買いをされて働かされて。それでもなお最初に家族のことを気遣う。自分以外に守りたいものを持っている子たちってこんなに人にやさしくあれて、こんなに強くあれるんだって。今さかのぼって思い出すと、上智大学の精神によく似ています。For Others With Others. それを一番最初に教わったのがこのカンボジアという国でした。

帰国してから私自身、何かをしたいと思うようになりました。彼らのような思いをする子どもたちが一人でも減ってほしい。でも当時高校2年生です。自分自身にできることはほとんどありませんでした。自分はたくさんの資金があるわけではない。目の前にいるたくさんの子どもをお腹いっぱいにすることはできない。自分に何か技術があるわけではない。目の前に病気になった子がいても、自分が治療することはできない。もしも自分に何かが残されているとすれば、五感で感じてきたカンボジアという国を一人でも多くの人とシェアをさせていただくということでした。

第24回コムソフィア授賞式安田2
写真:安田さんの講演中の様子

アンゴラのお母さんの写真
ただすぐに伝える仕事、マスコミの仕事に就こうと思ったわけではありません。私が上智大学で選んだのは教育学科でした。教育方面で何か国際協力に携われないだろうか。この大学で少しでも国際教育を学べないだろうか。

こうして過ぎて行った大学の日々の中でもう一つの大きな出会いがありました。もう何の写真展かもわすれてしまいました。たくさんの写真家が世界の紛争地の写真を展示していた写真展です。私は1枚の写真の前で足が動かなくなりました。当時内戦中のアンゴラ。その難民キャンプの写真の一枚です。ガリガリのお母さんのおっぱいに赤ちゃんがすいついている。状況は絶望的でした。でもお母さんの目の強さに私は射抜かれる思いでした。何とかこの子だけは守り抜きたい。カンボジアで会った子供たちの目にそっくりでした。

フォトジャーナリストの名前は渋谷敦志といいます。今では私にとっては兄であり、人生の師匠である人間です。渋谷敦志の一枚の写真に出会ってカメラを手に取ったのは大学3年生の時でした。そこから徐々に徐々に在学中からフォトジャーナリストという仕事が始まっていきます。

教育とジャーナリズムというのは一見違うもののように見えるかもしれません。しかしどれだけ真摯に人と向き合えるかということは、教育であってもジャーナリズムであっても同じだと思っています。人に対してどのように向き合っていくか、どのような姿勢で人を見つめるのか。その礎えを築いてくれたのが、確実にこの教育学科の在学中でした。

 卒業して4年が経ちます。そしてカンボジアに初めて足を運んでから11年が経ちました。今でも目を閉じていてもあの美しい台地が目に浮かびます。そして心の中にはいつも子どもたちの笑い声が響いているように思います。このカンボジアという国。日本とは少しだけ暦の数え方が違います。4月の半ば、クメールニューイヤーと呼ばれています。旧暦で正月を迎えるこの国に、今年こそは子供たちと一緒に正月を過ごしたい。そう考えていた、2011年3月、あの東日本大震災を迎えることとなりました。

2011年3月11日
 皆さんの中でこの一本松を実際にご覧になったことがある方は、どのくらいいらっしゃいますでしょうか。
 
かつてはここに高田松原という日本百景のひとつがあり、7万本の松林がここに生えていたそうです。その7万本がほとんどさら地になっていく中で、一本だけ波に耐え抜いたのがこの松でした。

1_高田松原の一本松
写真:高田松原の1本松

 皆さん、もう一度思い起こしていただければと思います。2011年3月11日午後2時46分。皆さんどこで何をしていらしたでしょうか。私自身はこの時は日本国内におらず、フィリピンの山奥で静かな時間を過ごしていました。日本から次々と知らせが入ってきます。この日私が最後に受け取ったニュース。今回の震災は、地震のエネルギーだけで見ると、阪神淡路大震災の800倍ですというニュースでした。
 
 私事ですが、この2011年、入籍をした年でした。私にとっての義理の両親、義理の父、義理の母が暮らしていたのがこの一本松が生えている、陸前高田市というところです。翌3月12日、フィリピンにもわずかですが、津波が到達しています。この日のフィリピンの地元紙の一面、陸前高田市のことがただ一言、「壊滅」というふうに書かれていました。
 
岩手県陸前高田市、震災前は人口2万人強の小さな市でした。その中の死者、行方不明者の数あわせて2000人近くに上ります。3月、帰国した私が目にした陸前高田の街というのは、そこにどんな営みが存在したのか想像できないほど街の中心地がごっそりと流されてしまった状態でした。
 敢えてこちらに入れさせていただきました。ここからの3枚は、私ではなく、私の父が、勤めていた県立病院から撮影したものです。
 
2_陸前高田津波110311
写真:陸前高田津波(一)2011年3月11日(クリックで拡大)

3_陸前高田津波_2_110311
写真:陸前高田津波(二)2011年3月11日(クリックで拡大)

4_陸前高田津波_3_110311
写真:陸前高田津波(三)2011年3月11日(クリックで拡大)
 
これが1枚目です。そしてこれが2枚目。これが最後の写真です。この後父は首まで波につかっています。この写真が撮られたのは、病院の何階部分だと思いますでしょうか?病院の4階部分に当たるところでした。当時県立高田病院は、地震の影響で半分停電状態にあり、父は、人工呼吸が必要な患者さんの人工呼吸を看護師さんと交代で手で行っていたそうです。そこに波がわっと押し寄せてきて、幸いにも患者さんが横たわっていたマットが空気が入ったマットで、それが波に浮きあがって、そこにしがみつきながら人工呼吸を続けたそうです。この日は何とか助けだした100人の患者さんと一緒に、屋上で一晩、寒空の下で過ごしました。

義母が行方不明
 そして翌3月12日、自衛隊のヘリコプターで救出された際、義理の母の行方不明が分かりました。義理の母は佐藤淳子という名前でした。ご存知の通り、佐藤というのは日本で最も多い名前です。避難者名簿には、何度も何度も、この小さな街の中であっても同姓同名があがってきました。私たちはそのたびに喜んで避難所にいきました。そしてそれはすべて人違いに終わってきました。
 
 私たち夫婦は何度も父が被災した病室を訪れました。あの時父はどんな気持ちで100人の患者さんと一緒に過ごしたのか。父の気持ちに少しでも近づきたいと思いました。県立高田病院の病室には、何かをつかみかけたような手のあとが無数にこうして残されていました。
 
震災から2週間後、母の車だけが見つかりました。めちゃくちゃのまま、ギアーはパーキングのまま。車で逃げたのではないことだけは確かでした。ぐちゃぐちゃになった母の車からナンバープレートだけを取り上げたときの気持ちを今でも忘れることができません。
 
海から9キロ地点で遺体発見
 そして震災から1カ月近くたった4月9日。訪れた人はご覧になったかと思います。陸前高田市、気仙川という大変美しい川が流れています。その川の9キロ地点、海など全く見えないがれきの下でようやく母の姿が見つかりました。彼女は9キロ濁流にのまれたまま、家族のように大切にしていた2匹の犬のリードをぎゅっと握り締めた状態で見つかりました。
 
母は生前、手話の通訳をしていた人間でもありました。今回の震災に限らず、地震で津波警報が鳴ると、真っ先に耳の聞こえない方々のもとに走ったそうです。こんなときくらいは、あるいはこんな時だからこそ、自分自身の身の安全を第一に考えてほしかった。そう考える半面、最後まで誰かのために生きた母の命がこの町の中にあるのであれば、母の命をこの街の中でつないでいきたい。そう考えた私たちは、この町にとどまりました。ただ、圧倒的に破壊されてしまった街で、一体何をしていいのか、何を撮っていいのか、全く分かりませんでした。写真を撮っても目の前のがれきがどけられるわけではありません。避難所の人がお腹いっぱいになるわけではない。私たちにできることがこの町に残されているのか。それが全く分かりませんでした。

たった2人の入学式
 そんな中で迎えることになった4月21日。私にとっては一生忘れることのできない日です。小学校、中学校の中でようやく入学式が行われることが決まった日です。この小学校、中学校の入学式の記念写真のお手伝いをさせていただいた日でした。私がお手伝いをさせていただいたのは、気仙小学校と言います。気仙川の河口に最も近かった小学校です。校舎が全壊、体育館は燃えました。この小学校は全壊をしたにもかかわらず、避難所に指定されていた学校でした。今回の震災に限らず、ここにはたくさんの人が避難をする場所でした。少し前に高台の山に避難をしていた子どもたちは、足もとで近所の大人たちが流されていくのをただ見ることしかできなかった。そんな小学校でした。
 
5_たった二人の入学式
写真:たった二人の入学式
 
一見すると賑やかに見える入学式。しかしこれは、高台に残っていた面瀬小学校という別の小学校との合同の教室です。この気仙小学校自体に入学することができたのは、たった2人でした。この2人のために小学校の図書室を使っての小さな小さな入学式が行われました。先生方は2人に語りかけます。2人の命が、この町皆にとっての宝物だから。だからこの学校に通う6年間これだけは約束して下さい。皆の宝物である命を6年かけて磨き続けてください。
この日2人の命は私にとっても大切なことをもう一度呼び起こしてくれました。入学式というたった1日をもってしてもこの日のために奔走してきた先生方がいて、何より避難所暮らしに耐えてきた子供たち自身、親御さんたちがいて、前日まで泥かきのボランティアをしてくれた学生さんたちがいて、現地には行けないけど子どもたちの服を、道具箱を買ってくれた全国の皆さんがいました。

写真は未来への手紙
 写真のなせる役割は、最後のほんの一握りです。ただ、一人の人間がすべての役割を果たすことはできなかったはずです。それぞれができることを持ち寄れば乗り越えられることがあるかもしれない。2人の命がこの日、私たちに大切なことを教えてくれました。東日本大震災から3年3カ月。あの時1年生だったあおいくんとふみやくんは今年、新4年生になりました。この街の中で少しずつ大きくなっていく子供たち。この町の先生方、そして大人の方と話していたことがあります。この震災の直後、ほんとんど写真を撮れていないんです。そんなとき地元の方がこんな声をかけてくれました。
 
 あの震災直後こそ写真に残しておいてほしかった。あの時写真を追っている人間を目の前にしたらもしかしたら殴りかかっていたかもしれない。何とってんだって暴言を吐いていたかもしれない。だけど今になって思う。この街の中で一体どこまで波が来たのか。どうやって人々がそこから立ち直ってきたのか。どんどん時間が経つことであいまいになっていっている。次の世代が同じ悲劇を2度と繰り返さないためにも、あのときこそ写真を撮っておいてほしかった。そしてその作業はまだきっと遅すぎないはずです。今起きていることを今伝えるだけでなく、未来に手紙を紡ぐように写真を残していきたい。

伝えるということは何なのか?
 この上智大学の卒業生の方々には、伝えるという仕事に従事されている方が大勢いると聞いています。For Others With Others. その信念をむねにこれからも写真に一体何ができるのか。伝えるということは一体何なのか。考え続け、そして一つ一つ進んでいければと思っています。今日こうしてお世話になりましたマスコミソフィア会の皆様、そして在学中、卒業後もお世話になりました上智大学の関係者の皆様に、この場を借りて深く感謝を申し上げます。本日は本当にありがとうございました。
 
(講演録起こし:磯浦康二 ’57文新)
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