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シーゼ(裸足の歌姫)へのオマージュ

2011年12月30日
松村裕幸(1970年外・ポ卒 元WFP国連世界食糧計画職員)

◆日本で伝えられなかったアフリカの歌姫の死

 2011年12月18日から19日の2日間にかけて、私はチェコのプラハへの旅行中に、BBCのテレビで世界的な著名人3人の訃報を相次いで放映しているのを見ました。

 最初の1人は2004年のグラミー賞受賞者で「裸足の歌姫・エディット ピアフの再来」と呼ばれたセザリア・エボラ(通称シーゼ)(12月17日死去、享年70歳)

 2人目は、1989年の東欧のビロード革命の旗手で、元チェコ大統領で作家のヴァクラブ・ハベルVáclav Havel(12月18日死去、75歳)

 3人目は、北朝鮮の独裁者で金正日(キム・ジョン・イル)(12月17日死去、70歳)でした。

 18日のチェコのプラハは、町全体に半旗が掲げられ、人々はハベル元大統領の死を悼んでいました。
私は12月23日に帰国しましたが、日本のメディアは金正日の葬儀一色でハベル元大統領の死はもとより、シーゼの訃報は全く無視されていました。国連のWFP(国連世界食糧計画)の職員として26年間、アフリカで生活してきた私にとってシーゼの歌を忘れることはできません。この場を借りて、シーゼの思い出を記し、彼女の歌の素晴らしさを再認識して頂きたく、筆を取りました。12月30日には私が6年間も滞在し、そして彼女が生まれ育ち、亡くなったアフリカのカーボ・ベルデから彼女を偲んで写真と歌が私に送られてきました。

◆忘れられないシーゼ(セザリア・エボラCesária Evora)との出会い

 私が初めてセザリア・エボラ(通称シーゼ)の歌声を聴いたのは、忘れもしない1992年の暮れ、南部アフリカのナミビアでした。当時、アパルトヘイトの人種差別を行っていた南アフリカのラジオ放送でした。甘く、切なく、哀愁に満ちた“Deixa de morrer”(死なないで)で始まる歌声は、私の心をとらえて、離れませんでした。それが1992年、30万部を売り上げたMiss Perfumadoの曲でした。シーゼは西アフリカのカーボ・ベルデ島出身の歌手であることを知り、歌には人種差別が無いのかと感心したりしたことを記憶しています。

 その2年後の1994年8月。私はカーボベルデへ転勤になり、その年の暮れに、首都プライアの国会議事堂ホールで開かれた彼女のコンサートに家内と二人で聴きに行きました。館内600席のホールは満席。立ち見が出る程の盛況で、会場はムンムンと熱気に満ちていました。同じ会場で世界的に有名なポルトガルのファドの女王アマリア・ロドリゲスがコンサートをした時は、観客は半分だったと知らされ、その盛況さに圧倒され、人気に驚きました。

 シーゼは舞台に設置されたテーブルのグロッグ(サトウキビで出来た50度の現地産アルコール)を先ず一口飲み、コラデイラと呼ばれるサンバ調の踊りをしながら、裸足で会場に現れました。まさにシャンソンの女王、エディット・ピアフの再来を彷彿させます。一曲歌うごとに、タバコを吸い、グロッグをすすり、大柄な体全体をゆらせながらの歌は迫力に満ちていました。

 また、モルナ(Morna)独特の哀愁に満ちたメロデーは心に焼きつけられました。ブルースのようなメロデーで、cavaquinho(小さなギター)、クラリネット、アコーデオン、バイオリン、ピアノ、ギターの音色がたまらないコンビネーションの音楽です。

◆カーボベルデの自宅でご馳走に

 その後、彼女とは個人的に2度ほど、会っております。

 最初は2003年4月でした。ドイツのミュンヘンで彼女のコンサートがあり、たまたま、会議とジェンダーの研修で私はミュンヘンに滞在していました。当時、彼女はWFPの親善大使をしていた関係で、私は10年ぶりにコンサートに行きました。最初のコンサートから10年経っても、彼女のダイナミックな歌唱力は変わらず、1000人ものドイツ人の観客を魅了しました。何度もアンコールのコールでした。コンサート後に私は楽屋へ訪れ、彼女の生まれ故郷であるカーボベルデの話しをしましたら、「ドイツでカーボベルデのことが話題になるとは」と、非常に喜んでくれたことを覚えています。

 2度目は、2007年1月に、カーボベルデのサンビセンテ島をWPFの仕事で訪れたとき、同僚が彼女の家へ連れて行ってくれました。カシュパ(現地の代表的な食事)を御馳走になりました。そのときに彼女と一緒に撮影した写真はマスコミソフィア会のコムソフィアに掲載した「アフリカだより」の第六話(クリックでリンク)に掲載されています。

◆人間的な魅力のあるおばさん

セザリアエボラ
セザリアと筆者(クリックで拡大)

 今でも記憶しているのは、最初に「Sra.Cesária Evora」と話し始めると、「ニックネームのシーゼ(Cise)と呼んでくれ」と言われました。彼女に「日本も含めた世界各国でコンサートをされて、どこが一番良かったですか?」と尋ねると、答えは、「フランスのパリかな…」そのあと少しして、「いや、やっぱり、カーボベルデのサンビセンテ島のミンデロだね。ゆっくり、くつろげるからね」という言葉が返ってきました。

 すごく、人間的な魅力のあるおばさんという感じでした。世界的に有名になっても,生活は変えず、病気で体が弱っているにもかかわらず、私を自宅に迎えてもてなしてくれて、彼女の家はいつも近所の人たちのたまり場でした。

◆シーゼの簡単な略歴

 最後に彼女の略歴を紹介しましょう。

 1941年、カーボベルデのサンビセンテ島ミンデロに生まれ、7歳の時、父親が亡くなり、10歳の時、母親が7人の子どもを養育出来ないため、彼女は孤児院にあずけられ、そこで育ちました。幼少期から歌がうまく、16歳の時に船員のための場末のバーで歌い始めました。20歳ころ、Radio Mindeloで彼女の歌が放送され、次第に名前が知られ有名になります。その歌声を聴いて、カーボベルデの歌手でポルトガルで売れていたバーナ(「日本の最高だよ」の曲を歌いヒットする)が、1985年にポルトガルのリスボンでコンサートを企画して、成功を収めます。彼女が44歳のときのことです。その成功がフランスのパリに伝わり、1988年、フランスで最初のアルバム La Diva Aux Pieds Nusが発売され、大ヒットになります。

1992年“Miss Perfumado”のアルバムが世界で30万部売れる。
1995年、グラミー賞の候補に挙がる。
1997年、All AfricanMusic AwardsでBest Artistを受賞
2004年、Voz d’Amor のアルバムでグラミー賞受賞
2010年5月、心臓発作で、ポルトガルのリスボンで倒れる。パリで手術をするも、9月以降、歌手活動を中止。
2011年12月17日:生まれ故郷のサンビセンテ島で呼吸不全のため、70歳で死去。死ぬ前まで、好きなお酒をたばこは欠かさなかったと言われます。

◆カーボベルデ 魅力ある島、移民の島、音楽の島

 私の家には彼女のCDが8枚あり、いつも、なつかしく家内と聴いています。アフリカでの26年にわたるWFP勤務・生活の中で、カーボベルデは通算6年にわたって生活したところです。アフリカの中でも、小さな島国ですが魅力のあるところです。

 いつか、また、カーボベルデの魅力をお伝えできればと考えています。(了)
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