最新記事

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-

Comment

Comment Form

Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
-

Trackback

Trackback URL

125

原サチコ ドイツで生きる 役者を生きる

最初の写真独文化センター

■原サチコ ドイツで生きる 役者を生きる
   =「原サチコ」が「原サチコ」について語る=
■ドイツ文化センター主催講演会
■2011年7月10日(日) 14時~16時 ドイツ文化会館ホール
■聞き手:伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)

http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja7567518v.htm 

講演の様子
(写真①講演の様子 右:原サチコさん、左:伊達なつめさん)

▼はじめに

80年代から90年代にかけて東京の前衛的なアンダーグラウンド小劇場で活躍した俳優、原サチコさん(88外独)が新天地を求めてドイツに渡り11年。2004年に東洋人としては初めてオーストリアの老舗・ブルク劇場の専属俳優となり、5年間活躍した後、今はドイツ・ハノーファー市の州立劇場で専属俳優として活躍している。昨年はハノーファーで井上ひさし作「少年口伝(くでん)隊一九四五」を企画・提案・上演した。今までドイツ演劇界屈指の演出家と次々仕事をしてきた彼女の存在を知らないドイツ演劇人はいないほど。

この7月に一時帰国した原さんは東京ドイツ文化センターで、演劇ジャーナリスト・伊達なつめさんとのトークショウの形で、波乱万丈の11年を振り返ってくれた。「学生時代は演劇漬けの毎日で全然勉強してませんでした」と謙遜する原さんですが、自分のやりたいことに突き進んでいけば、必ず道は開ける―という破天荒なストーリーに会場では笑い声が絶えなかった。

日本人としてのアイデンティティーと自分自身に何ができるかを模索するなかで、俳優業だけでなく、広島、そして新たに起こった震災と現在の日本を自分なりにドイツで伝えていこうとする原さんの真摯な姿が浮き彫りされた。

会場
(写真② 満員の会場の様子)

▼大学1年で小劇場の舞台に

「高校時代は親の理想通りの優等生で、英語以外に、もうひとつ外国語を学びたくてドイツ語学科に入りましたが、入学後は自分の人生は何だろうと思い、悩みました。80年代前半のバブル真っ盛りのなかで、華やかなキャンパスライフに馴染めず、大学では浮いた存在でした」

大学1年のある日、下北沢で偶然、小劇場「演劇舎蟷螂」のチラシを見かけて、それまで演劇など見たこともなかったのに、思い立って受けてみたら合格、初めて舞台に立ってみると、今までになかった楽しさを覚え、両親には大学卒業までという条件付きでアングラ演劇の世界に足を踏み入れた。

「学生時代は演劇漬けの毎日で劣等生でしたが、いくつか、今でも大切に思える講義を受けることが出来ました。ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」を読む講義や形而上学の講義・・中でもデーケン先生の『死の哲学』の授業はとても心に残るものでした。同級生に影響されて、大学3年の春休み、一人旅でドイツを旅行しました。東ベルリン(当時)のベルリナーアンサンブル劇場でお芝居を見ましたが、学生からお年寄りまで幅広い年代の客層でぎっしりの観客席を見て、演劇が社会に根付いてるんだなあと衝撃を受けました」

大学卒業後も小劇場での演劇活動を続け、89年からは「ロマンチカ」という女性のみの劇団に移り、その中心的俳優として活躍。『ロマンチカ』を退団してからは映画、テレビにも出演するようになっていく。

▼35歳でドイツの演劇界へ転身

ドイツ行きの話が舞い込んだのは、そんな時だ。ドイツで舞台美術家・演出家として活躍していた渡辺和子さん演出の「羅生門」が、新国立劇場で上演されることになり、原さんも出演したが、その稽古中、渡辺さんが声をかけてきた。

「今度、私、ベルリンで『NARAYAMA(楢山節考)』を演出するので、出演者を探しているの。日本人なら誰でもいいの。夏休みに出演してくれる人いないかしら」

ドイツ演劇に関心があった原さんは「私でよかったら」と返事をした。99年夏、35歳のことだ。「NARAYAMA」に出演した日本人は原さんも含め2人だけで、他は全員ドイツ人。稽古場の雰囲気に驚かされた。

「自己主張の強いドイツ人の俳優たちは、一人ひとりが演出家のようで、自分のビジョンを強く主張し、自分の役を中心に持ってこようとする、演出家の言う通りにならない。俳優が演出家に従う日本の稽古現場とは大きく異なっていました。この主張の強さは大変なもので、黙っている人は、どんどん端っこに追いやられてしまう。この稽古場の雰囲気に衝撃を受けました」

▼前衛演出家、クリストフに拾われて

ドイツに行った原さんには一つの野望があった。それは当時、ドイツでは鬼才の前衛映画監督・舞台演出家のクリストフ・シュリンゲンジ―フと会うことだった。日本で、彼の映画「United Trash」を見たとき、絶対にこの人と一緒に仕事をしたいと心に誓っていたのだ。

「ベルリンにいる間、会う人ごとに『クリストフ・シュリンゲンジーフに会いたいんですけど、お知り合いじゃないですか』『彼に会うためにベルリンに来ました』って、ナラヤマの同僚スタッフや、カフェで偶然隣りに座ってる人にまで声をかけました。クリストフはテレビにもたくさん出演していた有名人だし、みんな笑うんですよ、「私だって会ってみたいよ」って。そのうちに、そんな私を見かねた出演者の一人が『僕の友達が彼のアシスタントをやっているから』と、クリストフのアシスタントを紹介してくれて。そのアシスタントさんが、その夜『NARAYAMA』を見に来てくれて、もしかしたら私のおかしさがクリストフに合うかも、と思ったらしく、企画中のドイツ国内ツアー公演のオーディションをセッティングしてくれたんです」

その時、アフリカから帰国したばかりのクリストフは、口から泡をふいているトランス(恍惚)状態のアフリカ人の写真を原さんに見せて「僕はこういう人たちと仕事がしたい。普通の俳優は要らないから」と言った。「分かりました。準備してきます」と返事して翌日、原さんはクリフトフの前で、パフォーマンスをしてみせた。

「演劇舎蟷螂にいたとき、毎日ハードな肉体訓練をしていたんです。寺山修司の作品で見るような、魑魅魍魎的な動きとか、『大滅亡』っていう陸に上がった魚のような動きとか。それが役に立ったというか。クリストフはとても喜んでくれて『是非一緒に仕事しよう』と言ってくれて。念願だったクリストフとの仕事が、こんなにも早く決まって、夢のようでした」

▼観客を煙に巻く奇天烈なパフォーマンス

そのクリストフのツアー公演は「ドイツ探し」というテーマで、出演者は当時のシュレーダー首相役俳優とその夫人役の俳優以外は障害者の人たちと原さんだけ。毎回、何も決め事なしの出たとこ勝負の即興劇。おまけに毎回、政治家などのゲストとの座談会も含まれるという奇抜な内容だった。

「当時、私はドイツ語をほとんど忘れてしまっていて、何を言われてるかも、何が進行しているかもわからない。『クリストフの世界に入れて嬉しい』と思っていたのと同時に、即興なのでいつもドキドキして、舞台に出たからには何かして去らねばというプレッシャーで押しつぶされそうでした…結果、いろいろ奇天烈なことをしていました、クリストフに突然『サチコ来い!』と言われて、動顛してゲストの人の首を絞めたり。今でもその公演を見た演劇人に出会うと、私のことを覚えていたりするので、よっぽど変だったんだと思います。」

その演劇ツアーで、スイスとドイツ各地の州立劇場を16か所回った。しかし「劇場」という場所では、日本人はおろか外国人にはほとんど出会わなかった。

「ドイツでは街中に外国人がいるのに、劇場には舞台にも観客席にも外国人がほとんどいないのはどうしてなんだろうと思いました。劇場は社会を写し出す鏡のようなものだから、もっと劇場に外国人がいてもよいはずなのに、と。もし誰もいないなら、今すでに舞台に立ってる私にはチャンスがあるのではないかと。ドイツ語もほとんど出来ないのに、是非チャレンジしたいと思ってしまったんです」

▼「意味がわからなくて読むところがいい」

ツアーを終えた後、ツアーを共にしたクリストフのスタッフと結婚することになり、ベルリンに本格的に居を構えることになる。すぐに子供も授かった。

「ベルリンに引っ越してからの数年は、自分にとって一番暗かった時代かも。赤ん坊を抱え、ドイツ語学校に行く以外は、家にいるしかなくて、このまま何年も過ごしていたら、いつまた芝居ができるんだろうかと不安で不安で。果たして日本を飛び出て正解だったんだろうかと悩んで。そんなとき、クリストフから次の作品にダンサーとして出ないかと声がかかったんです」

「ダンサーとして呼ばれた稽古初日、その日に、娘役の女優が諸事情で降りてしまった。しょうがなく、とりあえずそこにいた私が娘役のセリフを読むことになって。

いきなり台本渡されて、芝居の内容もわからず、でもドイツ語って意味は分からなくても、読むことは結構出来るから、とにかく読んでみた。そしたら『その、意味が分からなくて読んでいるのがいい』と言われて。相手のセリフがわからないので困って、発作起こして倒れる演技とかしたら、大受けで。それじゃあサチコが娘役やればいいねってことになったんです。そのときは知らなかったんですけど、他の出演者は、ドイツ演劇界を代表するような名優、女優達で、知ってたら緊張して駄目だったかもしれませんが、全く誰が誰だか知らなかったので、思いっきり暴れられました、今まで芝居できなかった日々のうっぷんを晴らすがごとく。それがうまく作用したみたいです。

稽古風景
(写真③ 急遽娘役をやることになった「rosebud」という作品の稽古風景。左端はクリストフ、右端に原サチコさん、その横右から2番目:独・名優マーティン・ブトケ氏)

その演劇界トップの人たちは天才で、ゴリ押しなんかしない、超越しちゃってる。台本をもらったらすぐにパーフェクトに演じられ、だから異質な私のこともすぐに受け入れてくれて、相乗効果で芝居を更に面白くしていける。刺激的な現場でしたね」

▼「三文オペラ」のポリー役で脚光

その後、クリストフのツアー公演を見たドラマツルグから声がかかり、02年12月ハノーファー州立劇場にて、ニコラス・シュテーマンという若手演出家演出の「三文オペラ」に出演することになる。「三文オペラ」は、世界的に知られたドイツの劇作家・詩人・演出家ブレヒトのヒット作で、ロンドン貧民街のボスの娘で、主役のマックザナイフと結婚する娘ポリーという重要な役を原さんは任される。

ポリー
(写真④   三文オペラ ポリー役の原さん)

「ニコラスのスタッフから『三文オペラ』を外国人だけでやる話があるので、ハノーファーに来て、オーディションで歌ってくれないかと電話があって…。急いでCDを買って、最初の一曲だけ行きの電車のなかで聞いて、ニコラスの前で歌ったんです。その最初の一曲は「モリタ―ト」と言って、男性の曲、しかも手練手管にたけたマックザナイフが低い声で歌う曲なのに、東洋人の姉ちゃんが高い声で、下手なドイツ語で歌いはじめたのが衝撃的だったみたいで、ひらめいたらしいんです。『そうだ、カラオケの三文オペラだ』って。当時ハノーファーに本当にタイ人経営のカラオケ屋があって、そこのウエイトレスみたいなポリーの絵が浮かんだらしく。彼は今はドイツの演劇界では有名な演出家ですが、当時は成功しはじめの若い演出家で、既存のドイツ演劇をなんとか打ち破ろうとしていたので、古典も何もお構いなしに暴れまくる私が使えると思ったみたいです」

当時、ブレヒトの作品は遺族の監修が厳しく、原本通りに演出しないと上演許可されなかった。ところがニコラスの「三文オペラ」は、どこもかしこも原本とは違っている。そのためブレヒトの原本の台詞は観客席に電光掲示板で表示されるというトリックで、上演許可を取った。舞台の設定も、役柄も、どこまでも不透明なまま最後まで進んでいくという、前衛的な演出だ。

この「三文オペラ」は、2002年12月より2009年6月までハノーファー州立劇場で上演された。当時ハノーファーで最も長くロングランした作品だった。
そして2011年3月、ケルン州立劇場にて、改訂版「三文オペラ」が幕を開いた。現在も絶賛上演中で、売り切れが続いている。

※HPに「三文オペラ」の動画参照
http://www.schauspielkoeln.de/stueck_trailer.php?ID=322&tID=2180
ウィーン・ブルク劇場で東洋人初の専属俳優に

仕事も軌道にのってきた原さんだが、04年夏にドイツ人の夫と別れ、3歳の息子を抱えて日本に帰国するかどうか、迷っていた。そんなときだ。クリストフとニコラスが「ウィーンに行きなさい。ブルク劇場の専属俳優になれるよう推薦しておくから」と救いの手を差し伸べてくれたのだ。

ウィーンのブルク劇場と言えば、ドイツ演劇発祥の場で、専属俳優の数も100人以上とドイツ州立劇場の3倍も抱えている、規模も予算も他劇場とは桁違いの、ヨーロッパ随一の伝統と格式のある大劇場で、ヨーロッパでは知らない人はいない。

「考えられないことですが、当時、私はブルク劇場が何かも知らなかったんですよ。とにかく息子と二人、食べていけるならどこでも行くって覚悟だったので。ウィーンに引っ越して、ブルク劇場を見て、初めて事の大きさを知ったという・・。ブルク劇場はその伝統から、古典的な心理劇と美しいドイツ語で有名なところ。普通なら外国人俳優など雇ってもらう余地はありません。でも当時のブルクの芸術監督のバハラ―氏が前衛演劇を重視していて、クリストフやニコラスとも契約していたので、その2人が推薦するなら、一年だけ試しに雇ってあげると。ブロークンなドイツ語をしゃべる東洋人俳優が、初めてブルクの専属俳優になったんです」

▼自爆テロの写真で一躍有名に

04年10月にベルリンからウィーンに転居。ブルク専属俳優としての原さんの舞台姿の写真が、ドイツの新聞に大きく掲載されたのは05年3月に開幕したニコラス演出の「BABEL」に出演したときだ。

自爆テロ
写真⑤ 「BABEL」の自爆テロシーンは各種新聞に掲載され、世界各国の演劇祭でポスターになった。自爆テロというのは、日本赤軍がテルアビブ空港で行ったことから有名になったそうだ。いきなり服を脱いだら自爆テロだった、というのも衝撃的。

「BABEL」は、ノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネックがイラク戦争について書いたもので、アグレイブ刑務所でのアメリカ兵の捕虜虐待をはじめ、自爆テロ、人肉を食べるカニバリズムなどがテーマ。それをギリシャ神話からの引用で語っていく前衛的な作品だった。自爆テロの場面では、原さんは頭に白ハチマキを締め、爆弾を腰に巻いた姿で登場、爆弾スイッチを手に叫ぶ。また人肉を食べる場面では、フランスで女性の人肉を食べた日本人の男が書いた手記「佐川君の手紙」を読み上げる。

「その場面は特別に美しい音楽、照明で、私も柔らかく静かに語りかけるので、お客さんは何がくるかと思ったら、人肉を食べる話になるので、ショックを受けて、パタパタと帰る人が出てくるんです。そんな役はドイツ人の俳優さんは自分のイメージが悪くなるので引き受けません。でも当時私は自分の評判はどうでもいいと思ってた。何をやっても親兄弟も日本の知り合いも見に来ないし、ブルクから捨てられたら行くところもない、って捨て身だった。結果的に過激なことをやる羽目に・・。私はノ―と言えない日本人の典型で、後先考えず引き受けてしまうことがよくあります。でも自我の塊のようなドイツ人俳優の中で、一人捨て身でなんでもやってくれる役者がいるのって、結構重宝がられるっていうのもあると思います(笑)」

佐川君の手紙
写真⑥ 「佐川君の手紙」 柔らかく静かに語りかける場面

結果は大反響を呼び、「BABEL」の公演は、5年も続き、南米コロンビアやヨーロッパ各地を巡演した。その都度、専属契約は更新され、原さんの名声も高まり、ブルクでは5年間に15作品に出演した。

「ウィーンにいる間は、とにかくずっと稽古で、初日を迎えたら、すぐに次の作品の稽古、の繰り返しの日々でした。ニコラスとクリストフ以外に私を使う演出家はいないだろうというバハラー氏の当初の予想を裏切って、次から次へとオファーがあり、ブルクにいた5年間、最も多忙な専属俳優の一人でした。たくさんの楽しかった作品がありますが、特に、ルネ・ポレシュとの3作の仕事は私のそれからの生き方にまで影響を与えるほど、素晴らしいものでした。ルネは、ドイツでは珍しく作・演出両方一人でやるんですが、稽古場で、私達俳優と、哲学や社会学の本を読みながら、話し合いながら、台本を作っていくんです。その作品は、社会学的・哲学的論理を利用しながら、役柄じゃなく、自分自身の問題に立ち向かうことの出来る稀有な作品で、私も外国人として生きることをテーマにした、素晴らしい一人台詞を毎作ごとに書いてもらい、それはそれは幸せな経験でした。そのような機会がなければ、私の問題など、決して舞台作品には反映されないからです。私だけでなく、彼と仕事したたくさんの俳優は、その後の生き方、考え方に影響を受けています。もっと彼の仕事ぶりが、日本でも紹介されるといいなと思って、この夏、彼の作品を自分で翻訳して、リーディングを東京ドイツ文化センターでやることになったのです。」

掲載誌
写真⑦ 原さんの活躍を伝える独掲載誌

▼ハノーファーに移籍して転機を迎える

09年8月。再び原さんに転機が訪れる。ブルク劇場の芸術監督バハラー氏の任期が切れ、後任者は路線が違ったため、ニコラスとその仲間と共に、原さんの契約も更新されなかった。いくつかのドイツの州立劇場から誘いを受けたが、ハノーファー州立劇場の専属になることに決めた。それは、ハノーファーの芸術監督に就任する演出家ヴァルブルク氏が、偶然にも息子が通園するウィーンの幼稚園で知り合った父兄の1人であり、公私共によく知っていた人だったからだ。

「ハノーファー州立劇場の路線は『新しい才能の発掘』で、若い演出家を見出していこうと。私もドイツの若い演出家の仕事に興味がありました。でも若い演出家はわりとおとなしいというか、やはりクリストフやニコラスとの仕事より刺激が少なかった。そこで自分自身で企画を考え、出してみようと思いました」

▼ドイツでヒロシマの芝居がしたい

ハノーファーは83年から広島市と姉妹都市関係にあった。
10年6月、原さんが姉妹都市を実現したハノーファー前市長に会って、市長から「第2次大戦で破壊され、『美しくない街』と不名誉な呼び方をされているハノーファーが、原爆で破壊されたのに見事に復興している広島市と結び合って共に歩んでいきたいという思いから、10年間にも及ぶ交渉の末、姉妹都市が実現しました」という話を聞かされた。

「そうだ、ここで広島のお芝居をやろう。奇天烈なことばかりやってきた私だけれど、ハノーファー州立劇場で働く日本人はこれまでもいなかったし、これからも現れないかもしれない、ヒロシマのお芝居をここでやることが日本人としての私の義務だ」と、決心した。原さんは自らのブログで、当時のことをこう記している。

「なんだかハノーファーに来たことが、神に導かれたみたいな不思議な気持ちになったのです。日本を離れて10年間ずっと、日本人である私がドイツ語圏で演劇をやっている間に、日本の作品が紹介できないか、と考えていました。ただ日本のということだけでなく、日独を結ぶもの、更に世界を結ぶもの、それは雲をつかむような話で、自分で考えがまとまらなかったのですが…」

▼井上ひさしの朗読劇をドイツで上演

原さんは09年8月に一時帰国したとき、広島のことを朗読劇にしたという話を知人から聞いたことを思い出し、本とビデオを送ってもらった。

「それは井上ひさしさんが新国立劇場演劇研修所のために書きおろした朗読劇『少年口伝隊一九四五』でした。井上ひさしさんらしい、完成度の高い戯曲で、ハノーファー初のヒロシマのお芝居として最適だと確信しました。劇場の上層部と交渉したら、難しいけれどやる意義はある、ということで上演が決まりました」

上演は決まったものの、東京生まれの原さんは原爆の被災地である広島、長崎の状況について詳しくは知らない。「何も知らない私がやっていいんだろうか」と、10年の夏休みには広島に出掛け、原爆ドーム、原爆資料館、原爆放射線医科学研究所など訪れたほか、広島ハノーファー協会会長の林寿彦さん(当時79)にも会って、原爆体験を語り継ぐ意味、ハノーファーと姉妹関係を結んだ時の話などを聞き、ビデオに収録した。

http://mytown.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201007210206.html
(2010年7月22日asahi.com-広島の関連記事HP)

▼ハノーファーで「ヒロシマ・サロン」

「最初は、私が広島でいろいろな人に行ったインタビューを、『口伝隊』上演の前後にビデオ上映する計画でしたが、結果的にそれは不可能になりました。『ヒロシマを語り継いでください』と訴えていた林さんが、私たちが取材した後10月末に亡くなられたこともあって、貴重な最後のインタビューを、ハノーファーの人々にどうしても見てもらわなければ、と思いました。そこで、『ヒロシマ・サロン』と名付けて、30人限定の観客と、広島名物のお好み焼きをつつきながら、広島でのインタビューのビデオを観ていただき、私の広島での経験を聞いてもらうという集まりを開きました。広島のお好み焼きは難しいので、鉄板を買って家で特訓して、材料もハノーファーで手に入るもので工夫しました。小さな会なのに、好評でいろんな新聞でも取り上げられ、何度も開催することになりました。姉妹都市にかかわった元市長や市役所の人たちもいらしてくださり、喜んでくださいました」

「70年代から80年代、広島―ハノーファー間の青少年交流はとてもさかんに行われていたそうです。でもこの10年ほどはあまり話題になっていなかったようで、ハノーファー市民の中でも、広島が姉妹都市であることを知っている人が少なくなっていました。私が『広島に取材に行ってくる』という話をすると『放射能は大丈夫か』と心配する人もいるほどでした。『ヒロシマ・サロン』をやってみて、微力ながら、広島への誤解が解けたり、興味を持つ人が増えたりするのを実感しました。この夏休みに再度広島を訪れて撮ってきたビデオと共に、11月にはリニューアルした『ヒロシマ・サロン』を開く予定です。そこには当然、福島の話題も入ってくるでしょう。

もう公演は終わってしまいましたが、「少年口伝隊一九四五」も好評でした。高校生のグループもたくさん観に来ましたが、中には、『こうした現実に起きた悲惨な出来事を舞台化してもいいのですか。実際広島の人はどう思うでしょう。』と、厳しい批判をする高校生もいました。しかし私は『広島の原爆体験を、世界中の人々が忘れないように、語り継いでいく手段として、演劇も有効だと思う』と答えました。演出どうこうというより、ハノーファーでヒロシマを伝えられたことだけでも意義があったと思っています」

ハノーファー1

ハノーファー2
写真⑧⑨:独人の若手演出家による「少年口伝隊一九四五」。子供3名を使い計6名の出演者で構成。ハノーファー州立劇場の舞台に「原爆のテーマが取り上げられた」という事実が大きな成果であった。  

▼福島原発事故で心身ともに混乱状態に

 東日本大震災と福島原発事故が起きた3月は、元々原さんにとって多忙な月だった。ハノーファー州立劇場での新作「銀の湖」の初日が3月19日、ケルンの州立劇場の改訂版「三文オペラ」の初日が3月26日、2つの初日を1週間違いで迎えるという、異常なスケジュールで、2つの作品の稽古のため、2つの都市を行き来するという日々だった。「本来なら、ハノーファーの専属である私は、ケルンの『三文オペラ』には出演できないはずでした。初日も一週間しか違わないし。でも、『ポリー役はサチコ以外に考えられない』というニコラスの言葉を聞いて、やっぱり7年間演じた自分のポリーがどうしてもやりたくって、ハノーファーの芸術監督ヴァルブルク氏に頼み込んだんです。どんなスケジュールになってもベストを尽くしますからって言って。」

「結果、両方の作品に出演出来ることになって。自分の我儘で、両方のプロダクションにスケジュール的にも迷惑がかかるわけだから、絶対良いものを見せなければ、っていうプレッシャーの日々でした。そんなとき、震災が起きて。周りの同僚は『すぐに家族をドイツに呼びなさい』とすごい剣幕で言うし、東京の母に電話してそう言うと、母もパニックを起こしてしまって。弟もそんなに心配するなと言うし。稽古は大詰め状態だし。何をどう考えていいのか訳が分からなくなってきちゃって…」

▼本番中の舞台で倒れ、救急車で病院へ

11年4月8日。ハノーファーの舞台で、原さんは倒れてしまった。
「生まれて初めて舞台の上で本番中に倒れました。すごいめまいがして床がぐらぐらして立っていられなくなって倒れてしまったんです。でも倒れたまま最後まで自分の台詞は言いましたので、お客さんは何も気が付かず、そういう場面だと思っていたようです。出番が終わったら救急車が待ってて病院に運ばれたんですけど、検査してもどこも悪くなく、心労だという診断で。同僚に、『倒れて当然だよ。どうしてサチコは震災後も平気な顔してるのか皆で不思議に思ってたんだよ』とそのとき言われました。皆に心配かけたくなくて、仕事場では強気で笑ってた、そんな無理が祟ってしまった。その時、自分で思っているほど自分は強くないんだなと思いました。それに、あんなめまいを体験すると、自分があとどれくらい元気で芝居が出来るだろう、何でもやれるときにやっておかないと後悔するなあと思いました」

そんなときケルン州立劇場では、ノーベル賞作家イェリネックが、今回の福島の原発災害をテーマに書いた新作を9月に上演する話が進められていた。演出家から「もしスケジュールが空いてたら出てもらえないか」という話が持ち込まれた。

「スケジュールは空いてませんでした。ハノーファーで10月に初日を迎える大作「ニーベルンゲン」でブリュンヒルトという大役をやることが決まってましたから。でも、震災が起きてからずっと、外国に住む私に何が出来るだろうって自問していた。イェリニックが福島のことを書いたという話を聞いたときに、あっこれだ、これを通してドイツに日本のことを身近に感じてもらいたい、これは絶対やらないと後悔する、という気持ちが強くなって。またまたハノーファーの芸術監督に、その気持ちを正直に話しに行きました。『これをやらなかったら、ドイツに生きてる私の意味がなくなる』と。そしてまたまた特別許可が出て、夏休み明けから、2つの稽古で2つの都市を行き来する日々が始まります」

▼肺ガンで亡くなったクリストフを偲ぶ

最後は、最近の作品の映像や日本で7月に東京ドイツ文化センターで公演した原さんの朗読劇(ルネ・ポレシュ作)の紹介があった。

ルネ
(写真⑩ ドイツで上演されたポレシュ作品。 風に吹き飛ばれそうな原さん。背景はジェットコースーターが猛スピードで降りていく動画。) 

そして原さんにとっては恩人の前衛演出家、クリストフ・シュリンゲンジ―フが10年8月21日に肺ガンのため49歳の若さで亡くなったことに言及。彼は3年前にガンの告知を受けてからも精力的に活動を続け、アフリカのブルキナ・ファソにおけるオペラハウス建設を計画した。最初荒唐無稽に思われたその計画も、彼の精力的な働きかけで、多くの人を動かし、現在すでに建設が進んでいる。
10年8月30日に彼の故郷、オーバーハウンゼンで葬儀が行われた。そのときのことを原さんはブログでこう書いている。

「彼が子ども時代にずっと通っていたカトリック教会、ここで葬儀を、というのが彼の願いだったそうです。その内部に入ったとき、そのステンドグラスも、照明も、蝋燭もすべて、彼の去年の演劇作品とそっくりでした。そこにある、彼のお棺も、大きい写真も、たくさんの花も、ああこれがクリストフの最後の作品なのだなあ…と気付かせてくれました。

彼は、人生丸ごとが作品で、作品はだから、いつも真実の人生でないと、許さない人でした。役者の技巧で、そこに『架空の世界』ができると、とたんにぶち壊しにかかる人でした。だから彼は精神障害者や素人の人を好んで使いました。その人たちは、舞台上でも嘘をつく技巧がないからです。彼は、障害者のお気に入りのキャストを何人も抱え、大きな劇場での作品作りにも、その人たちを出演させるよう劇場に要請しました。そんなことは前代未聞の劇場側と、たくさんのトラブルがあったのはもちろんです。

そんな障害者の1人、ホーストが、葬儀の間もいろいろやらかしていたのですが、それも、クリストフの作品らしくて、皆の泣き笑いを誘っていました。

クリストフのエネルギー、あの、周りの人を、ファンでもアンチでも、皆取り込んで、皆一緒に作品を作ってしまう、あのエネルギーは、今どこに行ったんだろうと思います。死んでしまったら、そのエネルギーも、なくなっちゃうのかな…そうは思いません。きっと、そのエネルギーは、彼と関わった全ての人の中に分散されて、生き続けている。私の中にも、ずっと生き続けている。ずっと忘れずにいようと思います。彼の仕事ぶり、彼の言葉…どんな人だったか、語り伝えていきたいです」

雑誌表紙
写真⑪ クリストフの死を悼むドイツの演劇専門誌「Theater der Zeit 06/2011」。「少年口伝隊一九四五」も同誌に掲載される予定。

原さん
写真⑫ 原さんとクリストフの写真

▼感想

昨年11月、こまつ座の公演で井上ひさしの「少年口伝隊一九四五」を偶然見たが、同プログラムにドイツのハノーファーでも上演されたことが書いてあった。まさか、原サチコさんが関わっているとは思わなかった。ソフィアンが、原爆体験をドイツで伝えている姿に感銘を受け、「記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ」という井上ひさしのメッセージも改めて思い出した。今後の原さんの活躍を応援したい。今回、この講演会を企画され、当日の総合司会も務められた小高慶子さん(81年独文卒・ドイツ文化センター文化部企画担当)に心から感謝します。(山田洋子記、77外独)

パーティの原さん
写真⑬ パーティーで談笑する原さん

「原サチコ氏略歴」
64年11月 神奈川県生まれ。88年外独卒。84年より演劇舎蟷螂にて演劇を始める。後に劇団ロマンチカにて活動。99年渡辺和子演出「NARAYAMA」ベルリン公演でドイツにて初舞台。そのとき、鬼才クリストフ・シュリンゲンジーフと知合い、彼の作品に出演。01年ベルリンへ移住。その後、ニコラス・シュテーマン演出の「三文オペラ」ポリー役をきっかけに様々な演出家の作品に出演。04年より、東洋人として初めてウィーン・ブルク劇場の専属となり、引き続き、シュリンゲンジ―フ、シュテーマンを始め、ルネ・ポレシュ、セバスチャン・ハルトマンなどの作品に出演。09年にウィーンからハノーファー州立劇場に移り、専属として活躍中。02年にハノーファー州立劇場で初演したシュテーマン演出の「三文オペラ」は、新バージョンとしてケルン州立劇場でレパートリーとなっている。原サチコは引き続きポリーを演じている。 
11年シーズンは、ケルン州立劇場「Demokratie in Abendstunden/Kein Licht」(9月29日初日)、ハノーファー州立劇場「ニーベルンゲン」(10月23日初日)で幕を開ける。


(参考リンク)
■ケルンー三文オペラ画像掲載HP:http://www.kultura-extra.de/theater/feull/rezension_dreigroschenoper_schauspielkoeln.php
■出演作品一覧:http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000/archive/2011/07/07 
■原さんのブログ:http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000 
スポンサーサイト
0

Comment

Comment Form

Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
0

Trackback

Trackback URL

検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
Return to Pagetop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。