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放送の自律 〜 報ステ、クローズアップ現代、そして自民党調査会

ニュースにはいろいろな定義がある。「犬が人にかみついた時、それはニュースではない。人が犬にかみついた時、初めてニュースになる」(チャールズ・デイナ)などさまざまである。要するに何が起きているかを大衆に伝える日々の情報であろう。とくに自分がどう考え、行動したらいいのかの思考力を知らせる重要な情報といっていいと思う。そのニュースがいま話題になっている。テレビ朝日の「報道ステーション」の生放送中、元経済... ニュースにはいろいろな定義がある。「犬が人にかみついた時、それはニュースではない。人が犬にかみついた時、初めてニュースになる」(チャールズ・デイナ)などさまざまである。<br /><br />要するに何が起きているかを大衆に伝える日々の情報であろう。とくに自分がどう考え、行動したらいいのかの思考力を知らせる重要な情報といっていいと思う。<br /><br />そのニュースがいま話題になっている。テレビ朝日の「報道ステーション」の生放送中、元経済産業省官僚の古賀茂明氏が、古舘伊知郎キャスターと口論になってしまった。古賀氏が官邸などを批判した問題で、官房長官などからバッシングを受け、3月中で出演を断られたのではないか、と同氏が発言した。<br /><br />さらにNHKの「クローズアップ現代」でやらせ疑惑があったのではないかとの疑問が出た。昨年5月の多重債務者の問題で、ブローカーとされた男性が「ブローカーではない」と反論。両局とも一部、番組内容に問題があったことを認め、視聴者におわびしている。<br /><br />ところが自民党情報通信戦略調査会がこのたび両局の幹部を呼んで事情聴取した。<br />放送法に照らしてやっていると言っているが、放送局の一番組に政権党が介入していくのはいかがなものであろうか。<br /><br />すでにNHKや民放各社がつくっている「放送倫理・番組向上機構」(BPO)が2003年に設立され、視聴者などから指摘された番組の内容、取材、制作上の問題点を検証している。国や政権党が放送の一番組に介入すると、国の「圧力」や「権力の乱用にみなされかねない。<br /><br />もちろん放送法の第四条は「報道は事実をまげないですること」と定められている。公正なる報道を守らなければならない。しかし100%の公正さがないにしても、ジャーナリストがそれを目指して努力する以外にない。とくに日本のジャーナリズムに多い自主規制は避けるべきであろう。放送の自律をさらに確立しよう。<br />(武市英雄 '60 文英 新聞学者 元上智大学名誉教授)<br />
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三水会2014年10月講演録:浜田敬子さん

■講演テーマ:週刊誌「AERA」でわかる働く女性の変化 ー 雑誌ヒットの秘密 ー■講師:浜田敬子(はまだけいこ)さん(’89年法学部国際関係法学科卒)   「AERA(アエラ)」編集長■日時:2014年10月27日(月) 18:30~20:30■場所:ソフィアンズ・クラブ■参加者:30名<浜田敬子プロフィール>’89年朝日新聞社入社。前橋、仙台支局を経て、93年週刊朝日編集部。篠山紀信さん撮影の表紙や林真理子さんの対談ページを担当し、99年... ■講演テーマ:週刊誌「AERA」でわかる働く女性の変化 ー 雑誌ヒットの秘密 ー<br />■講師:浜田敬子(はまだけいこ)さん(’89年法学部国際関係法学科卒)<br />   「AERA(アエラ)」編集長<br />■日時:2014年10月27日(月) 18:30~20:30<br />■場所:ソフィアンズ・クラブ<br />■参加者:30名<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095418cb0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095418cb0.jpg" alt="1正面1RIMG6034" border="0" width="430" height="323" /></a><br /><br /><浜田敬子プロフィール><br />’89年朝日新聞社入社。前橋、仙台支局を経て、93年週刊朝日編集部。篠山紀信さん撮影の表紙や林真理子さんの対談ページを担当し、99年からAERA編集部へ。特に<br />女性、雇用、国際問題などを担当し、2004年から同誌副編集長。06年に育児休業取得。13年から同誌編集長代理。14年4月に編集長に就任。 現在テレビ朝日「グッド!モーニング」火曜日コメンテーター、BS朝日「ザ・インタビュー」のインタビュアーも務める。<br /><br />司会(黒水):「浜田さんが編集長をしておられる週刊誌『AERA(アエラ)』は、働く女性に焦点を当てた独自の編集視点をもち、雑誌出版だけでなく読者参加型組織「ワーキングマザー1000人委員会」を組織化してネットワーク活動も展開しておられます。浜田さんは、この9月にはワシントンDCで開かれた「WHITE HOUSE SUMMIT ON WORKING FAMILIES」に招待されており、働く女性のための活動やワシントンDC、ホワイト・ハウスでのイベント招待の様子などについてもお話しいただきます」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095420a72.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095420a72.jpg" alt="2講演オープニングRIMG6041" border="0" width="430" height="323" /></a><br /><br />演者口上:「皆さん、『AERA』を読んでいただいたことがあるでしょうか。ご存じの方はどのぐらいいらっしゃいますか(笑)。上智大の現役の学生とか若い人の講演に行くと、たぶん半分も手が上がらないかも、というぐらいです。<br /> 私たちが作っている『AERA』、今週号はこれです。『AERA』は1988年、私がちょうど大学4年のときに創刊しました。皆さんご存じだと思いますけど『ライバルは朝日新聞です』というすごくお金をかけたキャンペーンをやって朝日新聞社が作った週刊誌です。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095537ffe.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419095537ffe.jpg" alt="3AERAの紹介  RIMG6053" border="0" width="430" height="323" /></a><br /><br /> 創刊から26年経って、私が2014年4月に初めての女性編集長として就任しました。今『週刊朝日』も、創刊70年で初めての女性編集長です。<br /><br /> 私は1999年から『AERA』で働いています。長く『AERA』にいるので、今はほとんど『AERA』の生き字引のようになっていて、『あの企画は何年の何月ぐらいにもうやった』とか歩くデータベースとなっています」<br /><hr><br /><br />浜田さんによると出版不況の中、特に雑誌部数の減少は激しいため、紀伊國屋書店販売データ提供サービス「PubLine」に一喜一憂する毎日だという。 その「PubLine」の数字で見ると、『AERA』の読者は、男女比はだいたい5:5。売れた号は女性の読者が増えるときで、女性が6割ほどになるという。『AERA』は、男女合わせて30代、40代、50代初めぐらいまでの読者が多くて、専業主婦は少ない。日本の週刊誌の中では、女性の購読比率が高いことが、1つの特徴。読者の7割が都市在住。都市に生きる人たちの悩みを中心に取り上げている。教育問題1つを取っても、公立しか選択肢がない地方と、たくさん選択肢があって、しかも教育費がかかる都市では悩みの種類も質も全然違うことから、その辺は意識して編集している。『週刊朝日』という媒体もあり、同じ社内に2誌、週刊誌があることの差別化も図っているという。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼大特集主義に路線を変革し、特別編集長に秋元康氏・他を依頼</span><br /><br /> 『AERA』創刊当時は、「日本の『Newsweek』『Time』を目指す」ということで、国際ニュースに多くの誌面を割いてきたが、世の中の変化ともに編集方針を変え、現在は働く人たちが関心の高いこと、とくに女性を意識している。<br /><br /> そして浜田さんが4月から編集長になってからは大特集主義に路線を変革した。すぐに部数増という結果には結びついてはいないが、「最近の『AERA』はおもしろくなった」という反響が大きくなったという。大特集主義にしたのは、秋元康氏のひと言がきっかけ。秋元さんと仕事をしたときに、「浜田さん、幕の内弁当って記憶に残らないでしょう。あのとき食べておいしかったという幕の内弁当ってある?」と言われた。週刊誌の王道は政治、経済、マネー、事件、芸能とどの分野もくまなく入っているということ。それがこのひと言で、「幕の内弁当を作っていたら駄目だ」と気づかされ一号一号インパクトのある特集を組むようにしている。<br /><br /> さらに浜田さんが編集長になってやった新しい取り組みとしては、編集部以外の人とのコラボ。雑誌の市場が非常に厳しい中、日本を代表する超一流のプロデューサーに一号限りの「特別編集長」を務めてもらい、一緒に企画を考えている。そういう号を作ることで編集部員には一流の発想法や視点も学んでもらいたいと思っている。<br /><br /> 最初は無理を承知で秋元さんに「『AERA』を私たちと一緒に1冊作っていただけませんか」と手紙を書いた。秋元さんは一号限りの「特別編集長」という試みをおもしろがってくださり、「無理を超えろ」というテーマの一冊が生まれた。巻頭では無理を超えている人ということでワールドシリーズ優勝の米大リーグの上原浩治投手や40代になって歌舞伎役者に挑戦している俳優の香川照之さんらを特集した。新たな雑誌としての試みは反響が大きく、部数も大きく伸ばした。<br /><br /> 次に日本を代表するプロデューサーとしてジブリの鈴木敏夫氏を特別編集長に依頼、「ジブリがアエラにやってきた/宮崎駿引退後は初仕事」として表紙には宮崎氏の「マリーとクルミわり人形」を掲載した。そして今は、“くまモン”を考案した小山薫堂氏に特別編集長を依頼して企画を練っている。<br />特別編集長だけでなく、他の媒体とのコラボにも挑戦している。糸井重里氏の「ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)」サイトとは特集「40歳は、惑う」を一緒に企画、誌面は『AERA』がつくり、「40歳を考える」サイトはほぼ日側がつくり、ネットとの連動企画にした。<br /><br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504191009537ba.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504191009537ba.jpg" alt="「AERAの新たな取り組み事例」11" border="0" width="430" height="300" /></a><br />「AERAの新たな取り組み事例」1 <br /><br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419100954960.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419100954960.jpg" alt="「AERAの新たな取り組み事例」21" border="0" width="430" height="300" /></a><br />「AERAの新たな取り組み事例」2<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼『AERA』の読者は向上心があり、知的好奇心が高い</span><br /><br /> 浜田さんは、「『AERA』の読者の特徴は何かとよく聞かれる」という。「『AERA』の読者の特徴は、男女半々で、30代40代の働き盛り世代。知的好奇心が高く、向上心があり、世の中を少しでもよくしたいという気持ちがある。自分のキャリアに対しても積極的で、人生に対してポジティブであるという特徴がある。アンケートを依頼しても一晩で驚くほど内容のしっかりした集計がくる。自分の意見をしっかり社会に届けたいという意思をもった人が多いと感じます」と語った。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419100956a01.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419100956a01.jpg" alt="「AERA最新データ」1" border="0" width="430" height="300" /></a><br />「AERA最新データ」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2015041910095720c.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2015041910095720c.jpg" alt="[AERA本誌での大特集」1" border="0" width="430" height="300" /></a><br />「AERA本誌での大特集」<br /><br /> その読者に答える形で、昨年4月以降の特集は、「リーダーシップ」や「子育て」、「サッカー仕事論」などを組んだ。転職や英語を特集した号も人気があり、最近では、「40歳は、惑う」、先週号「クスリとどうつき合う」、その前「介護で人生をあきらめていませんか?」と特集してきている。<br /> 浜田さんは、『AERA』のコンセプトや『AERA』で報じている内容が好きだから読みたいと思われる雑誌をめざしたいという。「毎号、毎号の販売部数には、上下がありリスクが伴うが、反響があり、やりがいもある。当分は特集主義で『AERA』を続ける」と力強く語った。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101217010.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101217010.jpg" alt="4講演の様子 RIMG6069" border="0" width="430" height="323" /></a><br />講演の様子<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼クロスメディアを利用した雑誌販売増加策を考える</span><br /><br />特別編集長号を作るだけでなく、雑誌だけではインパクトが弱いので、雑誌の企画を雑誌の外に広げることにも努めている。<br />特別編集長を依頼したジブリの鈴木敏夫氏とは、特集号のなかで「鈴木敏夫を宮崎駿につなげた232冊」という記事を企画した。鈴木氏の4000冊の蔵書の選書会議の模様をFM東京で番組にする一方、代官山蔦屋書店との共同企画で店内に「鈴木書店」コーナーを設けて実際本が買えるようにした。さらに、鈴木氏のトークショーも蔦屋書店で企画、『AERA』の読者にふれあう体験と販売増策を図った。<br /> ほぼ日とのコラボ企画「40歳は、惑う」では、『AERA』とほぼ日で共同サイト「40歳は、惑う」を作り、SNSで読者同士が悩みなどを話し合える仕組みを作った。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼働く日本女性の変化と『AERA』</span><br /><br /> 浜田さんは、1989年に朝日新聞社に入社した。世の中バブルで、雇用機会均等法施行から3年目ということもあり、女性も大量採用されていた。だがその後バブルが崩壊し、就職氷河期に。採用自体も絞られたが、均等法採用で大量採用された女性たちを企業側がどう使ったらいい方針が固まらないうちに一気に辞めてしまった。90年代は逆に非常に働く女性にとって厳しい時代になったという。<br /><br /> 『AERA』が働く女性向けの記事を増やしたのは1998年。当時編集部に在籍していた88年入社の女性記者4人が自分たちのもっとも関心の高い話題を記事にし、反響を呼んだことから始まった。<br /><br /> 創刊当初の『AERA』は国際ニュースが中心で、湾岸戦争のときには中東などに10人以上の記者を派遣し、1冊全部湾岸戦争の記事で作った。当時はベルリンの壁崩壊からてソ連の崩壊、冷戦の終結と世界情勢が劇的に変わっていたので、国際ニュースで売れていた。だがその後、徐々に国際ニュースへの関心は薄れていった。そこに起きたのが1995年の阪神・淡路大震災とオウム事件だった。とくにオウム事件は、エリートたちがなぜ犯罪を犯したのかというところに『AERA』はこだわって報じた。オウム事件を機に90年代後半は、人の内面を書くニュースが増えていった。女性の生き方を報じ出したのも、人間の内面や生き方にフォーカスした延長にあったのだと思う。当時はまだ女性の生き方をニュースだととらえる雑誌が全くなかったことから、『AERA』は非常に注目されて部数も伸び、今の『AERA』の路線ができたという。<br /><br />浜田さんは、「女性は景気にすごく影響される。バブルが崩壊して、一気に就職氷河期に入り、一番しわ寄せを受けたのも女子学生。そのあと98年ぐらいの日本経済が一番冷え込んだときも、女性の採用がグッと絞られた。日本経済のあおりを一番受けているのは女性なので、女性を報じることは、日本という国の行方やひずみを報じられると思っています。」と述べた。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼『AERA』3大ヒット話―ヨンさま、雅子さま、負け犬さま</span><br /><br /> 『AERA』にはもう一度転機があったという。それは、2004年、浜田さんが副編集長になったときのことだ。<br />「2004年の『AERA』には3大ヒット話題があり、その話をやれば売れるというテーマがあったのです。それは、ヨンさま、雅子さま、負け犬さま、と私は呼んでいたのです。<br /><br /> 2003年に酒井順子さんが『負け犬の遠吠え』という本を出し、大ベストセラーになりました。そのベストセラーの10万部ぐらいは『AERA』が貢献したと、酒井さんにも言っていただいているぐらい、『AERA』は何度もこの現象を報じました。『負け犬の遠吠え』が出た直後に、私は、「これだ!」と思いました。これほど独身の気持ちを表わした本がなかったからです。<br /><br /> なぜ響いたかというと、まさに自分たちは1989年卒業の均等法世代だったにも関わらず、ほとんどの女性が仕事を辞めていました。仕事を続けているのはメディアに行った人間か、外資系に行った人間。日本企業は、例えば当時、富士銀行は総合職の女性を30人以上採ったのですが、今2人ぐらいしか残っていないそうです。私よりもうんと成績もよくて、帰国子女で、英検1級もあって、同時通訳の資格も持っているような女性たちが、なぜ働くことができなかったのだろうというのは、自分自身の問題でもあったので、ずっとそれをテーマに記事も書いてきました。<br /><br /> 私が卒業した国際関係法学科の同級生は働き続けている人と専業主婦が半々ですが、働いている人は全員独身、働いていない人は専業主婦をしている。独身の同級生たちの話を聞いていたので、酒井さんの本が本当に腑に落ちたのです。働き続けるために、全てを犠牲にしたとは彼女たちも思っていないですが、やはり結婚や出産を後回しにしてきた、という意識は持っていますね。「負け犬」をテーマにした記事は第8弾まで続けたのですが、反響があったのは、働き続ける女性の悲しみというか、それが伝わってきたからではないかと思っています」<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼すごい反響のあった「雅子さまが気になる私たち」の記事</span><br /><br /> 「雅子さまに関してもやはり上智の同級生との会話から始まったのです。当時雅子さまが、ちょうど適応障害を発症されたころだったのです。ずっと働き続けている女性たちの意見を聞くと、すごく雅子さまのことが気になっていた。あんなにキャリアもあった女性が、キャリアを捨てて皇室に入ったのにも関わらず、言われることは「子供はいつ生まれるのか」「男の子ではなかった」ということだけで、雅子さまは何のために生きているんだろう、雅子さまの人生って何なんだろう、というのが同級生の間での感想だった。それを「雅子さまが気になる私たち」ということで記事にしたら、それもすごく反響がありました。<br /><br /> それから10年以上、雅子さまの病状は少しずつよくなっていますが、雅子さまに対する視線は同じではありません。そこにはやはり複雑な思いがあって、自分たちだって働きながらつらいんだと。変わらない皇室と変わらない大企業を重ねて見ているんですね。私たちも男社会で頑張っているのだから、雅子さまもどうか頑張ってほしいという思いが出てきています。このように女性たちの思いを重ねた企画はうまくはまると部数が出ます」<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼ヨンさま表紙に爆破的反応で完売</span><br /><br /> 「もう1つのヨンさま。ヨンさま(ペ・ヨンジュン)は、2004年4月に来日しました。その前の年から韓国ドラマ「冬ソナ(冬のソナタ)」の日本での放映が始まっていて視聴率も徐々に上がっていたのですが、来日がピークとなり人気に一気に火がつきました。ホテルニューオータニで会見をやったときには中高年の女性たちが殺到しました。『AERA』では5月に表紙に登場してもらいましたが、その号は完売。「『AERA』さま、ありがとう」みたいな巻紙の手紙が来たりと、私たちが今まで触れたことがない読者の方たちが、ものすごく感情移入されていたのです。夫とうまくいってない方などが、「純愛をありがとう」、みたいな感じでした。最高齢の方は80歳以上のおばあちゃんでした。<br /><br /> ヨンさまが世の中の女性の人生を変えたインパクトというのはすごかったですね。女性たちが自分の欲望とか悩みとかとフィットした号が作れると、本当に雑誌というのはヒットが生まれるのだということを体感したのが2004年でした」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101311e10.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101311e10.jpg" alt="5 講演の様子 RIMG6079" border="0" width="430" height="323" /></a><br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼女性の悩みに企画の焦点を当てる</span><br /><br /> 浜田さんは、いろいろ女性の悩みを企画するときに、読者に会ったり、同級生との会話などからヒントを得るという。一度、『女たちは「幸せ」探しで人生を進化させる』という特集を企画した時、10年余りの間に『AERA』が企画した女性をテーマにしたタイトルを数えたところ、700タイトルを超えた。<br /> 今は、「介護」や「医療」の問題が反響が大きいという。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼「今さら何を言うか」安倍政権による女性の活用</span><br /><br /> 最近安倍政権になって、女性の管理職を一気に増やそうという動きがあるが、『AERA』では、15年ぐらい前から誌面で取り上げているテーマだ。「今さら何をと、本当は安倍さんに言いたい」と浜田さんはいう。女性管理職の登用に関する調査を2000年からやってきて、管理職を増やすためにはどうしたらいいかを報じてきた。2006年には「トヨタが変われば日本が変わる」という企画も特集し、女性登用の動き取り上げてきた。<br /><br /> 今後日本の労働力人口が減ることは自明で、日本は移民を受けるか、女性に活躍してもらういしかない。経団連の試算で2025年のGDPを国別に出すと、女性を活用した場合としない場合で順位が全然違ってくる。<br /><br /> 一方、女性もしたたかに賢くなってきている。リーマン・ショックなどを体験して、1回入った会社は、絶対に辞めないという女性も増えてきている。当然結婚もして出産もしたい。偉くならなくてもいいから、細く長く勤めて、夫と二馬力で家庭を安定させたいという女性が増えた。こういう女性たちをきちんと戦力にしている企業とそうでない企業の二極化が激しくなっている。だからいきなり、2020年に管理職の30%を女性にと言われても達成できるのは、先進的な企業だけだ。<br /><br /> 女性たちもいきなり、「管理職になれ」と言われても、その準備ができていないのですごく困っているのが正直なところ、管理職になって責任が重くなり、24時間仕事漬けみたいにもなりたくないので、管理職への昇進を躊躇している女性も多く、今、企業の悩みの種だ。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼雑誌『VERY』が売れる真の理由―女性の本音</span><br /><br />「今雑誌界で一番成功している雑誌は、『VERY』です。なぜ『VERY』があれだけ売れてあそこに広告が集中するのかというと、『VERY』が女性たちの欲望を凝縮しているからだと思います」と浜田さんはいう。「仕事はしているけども、家庭が第一。時短勤務で5時まで働き、子供が帰るときには家にいたい。仕事で家庭を犠牲にしているような、私みたいな働き方をしている人は、『VERY』を読んでは駄目なのです」と。<br /> 「そして若い世代ほど、『VERY』的な生き方に憧れています。なりたいモデルとして、今最高ランクにあるのです。だから、安倍さんがどんなに尻をたたいても、なかなか管理職の女性が増えないのは女性の責任ばかりではない。日本社会の責任なのです」と浜田さんは指摘する。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼社会へのインパクトを目指し「AERAワーキングマザー1000人委員会」を創設</span><br /><br /> 浜田さんは、女性も働いて自立することを応援する『AERA』の編集方針から「AERAワーキングマザー1000人委員会」(AERAワーママ委員会・https://twitter.com/AERA_mama)を、2014年4月に始めた。<br /><br />「AERAワーママ委員会」の創設のきっかけは、雑誌だけで完結していたら、社会にインパクトを与えられないといういらだちがあったという。『AERA』の記者はこれまで1000人以上のワーキングマザーや働いている女性を取材してきたがなかなか世の中は働く女性にとって生きやすい社会にならない。それで、やはり自分たちが取材してきた、働く女性たちのネットワークを作って社会に何らかのインパクトが与えられないかということで始めたという。少しずつメンバーを増やして、今、Twitterのフォロワーは数千という規模になっている。<br /><br /> 『AERA』の紙面では「ワーママの肖像」として、いろいろなところで活躍しているワーキングマザーを取り上げたり、特集「変革するワーママたち」企画し、「AERAワーキングマザー1000人委員会」の掲示板もつくり、交流を深めている。今後は働く女性や働く母親に役に立つような商品やサービスがこのプロジェクトから開発されることも期待しているという。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼「働く家族」をテーマにホワイト・ハウスでサミット―上智卒3人の女性が参加</span><br /><br /> 浜田さんは、2014年6月アメリカのオバマ大統領が、全米から女性を1500人集めた「White House Summit on Working Families」に出席した。このサミットには日本と韓国から社会のリーダー層の女性が5人ずつ招待をされた。日本から招待された5人のうち3人が上智卒。衆院議員の野田聖子さんとイーウーマン社長の佐々木かをりさん、そして浜田さんだったという。<br /><br /> この会議を通して浜田さんは、「日本に対してのアメリカの視線をすごく感じました。女性の登用に関しては、アメリカからの圧力は今、日本と韓国の両方が受けていると感じ、韓国はものすごくドラスティックに変わっているという印象でした。安倍政権が女性の活用を叫ぶ始めた背景には、アメリカの影響がある。日本を経済的に発展させないとアメリカとしてもまずい。その経済的成長を維持させていくためには、女性の力を使わないのか、アメリカに一週間滞在し、いろいろな議員や役所、ベンチャー企業、シンクタンクなどを回っている間に何度も聞かれました。韓国はいち早く女性の登用、国会議員のクオータ制を実現させたりと進んでいることを実感しました」と語った。<br /><br /> そして浜田さんは「私たちは私たち自身で、草の根から何かして変えていければなと思っています」と話した。<br /><br /><span style="font-size:large; color:blue;">▼感想</span><br /><br /> 編集長の仕事は、大学の総長にたとえられるほどその権威と責任は重い。日本の今の今、働く女性の抱える心の悩みを捕らえ、雑誌に反映させる編集の腕捌きの冴えは見事というほかない。<br /><br /> 最後の質問コーナーで、「いろいろな分野で活躍している上智の先輩(特に女性)のネットワークは広く感謝している。情報のキャッチの仕方について、手帳に気になったことを常にメモして、見直して、やりたいと思うことは人に伝えるようにしている」と語られた。この方法は、三水会でも講演され、マスコミソフィア会・コムソフィア賞受賞者の博報堂ケトル社長の嶋浩一郎さんから影響を受けたそうだ。<br /><br /> 冴えわたった語り口の講演であっという間に時間がたった。そして、三水会の翌朝早くから、テレビ番組に前日と全く変わらないペースで出演され、鋭いコメントをされている浜田さんを拝見し、卓越されたエネルギーの持ち主であることを痛感した。<br /><br />雑誌だけでなく各種のメディアや「AERAワーキングマザー1000人委員会」での今後の活躍も期待したい。<br />(まとめ:63法法 向山肇夫 77外独 山田洋子)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101400d30.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419101400d30.jpg" alt="9 懇親会ウーマンネットワークメンバーと  RIMG6110" border="0" width="430" height="323" /></a><br />懇親会ウーマンネットワークメンバーと<br />
  • Date : 2015-04-18 (Sat)
  • Category : 三水会
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『戦後70年  ー 写真展と体験者講演』を開催

マスコミ・ソフィア会主催『戦後70年 戦時下の上智、学徒動員 ー 写真展と体験者講演』を開催毎年ゴールデンウィーク後の5月最終週の日曜に行われ、8000人を超す現役学生や卒業生が集う「オールソフィアンズフェスティバル(ASF)」にて、マスコミ・ソフィア会は、戦後70年を機に、戦争体験を後世に伝えるため、上智大学出陣学徒の声を集めて記録に留める活動の一環として「写真展と体験者講演」を開催することになりました。コ... マスコミ・ソフィア会主催<br />『戦後70年 戦時下の上智、学徒動員 ー 写真展と体験者講演』を開催<br /><br />毎年ゴールデンウィーク後の5月最終週の日曜に行われ、8000人を超す現役学生や卒業生が集う「オールソフィアンズフェスティバル(ASF)」にて、マスコミ・ソフィア会は、戦後70年を機に、戦争体験を後世に伝えるため、上智大学出陣学徒の声を集めて記録に留める活動の一環として「写真展と体験者講演」を開催することになりました。<br /><br />コムソフィア(会報誌)No68でも特集した「学徒動員体験者の記録」に関する写真の展示はもとより、当日は、卒業生で体験者の方々をお招きしての講演会も催す予定です。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093317afc.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093317afc.jpg" alt="2_新聞学科記念写真_IMG_2925-s" border="0" width="430" height="296" /></a><br />1943年10月、専門部新聞学科生全員入隊を前にしての記念撮影<br />(後列左より4番目:故・マスコミソフィア会・濱口浩三会長)<br /><br />みなさまお誘い合わせの上、ぜひご来場ください。<br /><br />◆タイトル:戦後70年 戦時下の上智、学徒動員 ー 写真展と体験者講演<br />◆日時:2015年5月31日(日)<br />◆時間:11:00~15:00<br />◆場所:紀尾井坂ビル1階115教室(図書館の奥、11号館を入って左奥のビル)<br />◆主催団体:マスコミ・ソフィア会<br /><br />※特集記事<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-288.html" >「【特集】戦後70年を迎えて:学徒動員体験者の証言」</a>も合わせて御覧ください。
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【特集】戦後70年を迎えて:学徒動員体験者の証言

▶はじめに・・・▶戦後70年を機に「学徒動員体験」を語り継ぐ機運高まる!(編集室)▶再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む(香川節 1945文史)▶《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生(江副隆愛 1947文史)▶長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた(故 石井恭一 1948経経)▶上智大学出陣学徒戦没者名▶あとがきにかえて:終戦が半年早ければ(磯浦康二 1957文新)<戦後70年を迎えて>はじめに... <a href="#a">▶はじめに・・・</a><br /><br /><a href="#b">▶戦後70年を機に「学徒動員体験」を語り継ぐ機運高まる!(編集室)</a><br /><a href="#c">▶再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む(香川節 1945文史)</a><br /><a href="#d">▶《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生(江副隆愛 1947文史)</a><br /><a href="#e">▶長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた(故 石井恭一 1948経経)</a><br /><br /><a href="#f">▶上智大学出陣学徒戦没者名</a><br /><br /><a href="#g">▶あとがきにかえて:終戦が半年早ければ(磯浦康二 1957文新)</a><br /><br /><p id="a"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>はじめに・・・<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /> 今年は戦後70年、人の一生と同じ位の歳月が過ぎた。1931年(昭和6)の満州事変から始まった「アジア・太平洋戦争」は1945年(昭和20)8月15日まで15年間続いた。この間に軍人250万人、空襲などで民間人60万人、計310万人が犠牲となった。敗色濃くなった昭和18年、学徒動員が始まり特攻隊員など多数の学徒が犠牲となった。<br /> 上智大学からも多くの学生が戦地に赴き犠牲者も多いが、その記録などは整備されておらず、体験者は高齢化している。90歳を超えた学徒動員の体験者の大先輩を中心に、改めて体験を語り継ごうという機運が高まり、ソフィア会も戸川宏一副会長を中心にサポートの具体案について検討を行っている。負け戦を国民に隠し、戦争を無理に続行し多数の若者の命を犠牲にした「特攻」とは何だったのか?当時の若者の思いは?そして当時の軍の指導者は何を考えていたのか?私たちは戦後70年を機に、後世に伝えるため上智大学出陣学徒の声を集めて記録に留めることとした。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933163cd.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933163cd.jpg" alt="1_学徒動員_IMG_2922-s" border="0" width="430" height="246" /></a><br />1945年1月、学徒動員による水戸陸軍航空通信学校召集尉官生卒業式<br /><br /><p id="b"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>学徒動員体験者の証言<br />満20歳の上智大学学生が徴兵検査を受け陸海軍へ入営・入団<br />マスコミ・ソフィア会まとめ(資料提供・中島重行氏 1944専新)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /> 東条英機内閣は、戦局悪化により在学徴集延期臨時特例(文科系学生に対する徴兵猶予特典の停止)を制定し、1943年10月2日勅令を公布した(いわゆる学徒動員令)。これにともない満20歳に達した上智大学学生は徴兵検査を受け、12月早々に陸海軍へ入隊することが決まった。この第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日東京の明治神宮外苑競技場では、東条英機首相出席のもと出陣学徒壮行会(文部省主催・陸海軍他後援)が開かれた。これには、上智大学学生を含め関東地区の入隊学生を中心に7万人が参加した。壮行会の様子は、(財)日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況放送した(YouTubeで見ることができる)。学徒出陣によって陸海軍に入隊した学生は、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、戦場の指揮官クラスの下級将校や下士官になった。さらに1944年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだ。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093317afc.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093317afc.jpg" alt="2_新聞学科記念写真_IMG_2925-s" border="0" width="430" height="296" /></a><br />1943年10月、専門部新聞学科学生全員入隊を前に記念撮影<br />(後列左より4人目:故・マスコミ・ソフィア会・濱口浩三会長・元TBS社長)<br />(前列左より4人目:中島重行氏)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093319809.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093319809.jpg" alt="3_中島重行氏_IMG_2924-s" border="0" width="430" height="232" /></a><br />1944年11月、訓練中の水戸陸軍航空通信学校召集尉官生と特別操縦見習生たち<br />(後列右より2人目:中島重行氏)<br /><br /><p id="c"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>再び母校ソフィアの校歌を謳えず戦死した学友を悼む<br />香川節(1945文史・学徒動員陸軍東部第十七部隊)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /><br /><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933484cf.jpg" alt="香川氏写真200x200" border="0" width="200" height="200" /><br />香川節氏<br /><br /> 私は1941(昭和16)年4月に上智大学予科に入学した。同年12月8日に対米英開戦。当初は好調に見えた戦局は1942年6月から中部・南太平洋の作戦が不利になる気配で、予科の課程が2年から1年半に短縮された。私は文学部史学科に進学し、1944年9月までは授業を受けられたが学徒勤労動員令が出て10月からは「上智大学勤労報国隊」として工場に動員された。そして、1945年6月20日、私もとうとう陸軍に入隊する命令書を受けた。そして6月27日東部第十七部隊に入り、広島市東郊の八木松に出動した。もはやドイツも降伏して、日本だけが連合国の包囲に遭い、沖縄周辺では特攻戦術(片道だけの燃料と爆弾を積んだ飛行機で、敵の軍艦に体当たりする自殺戦法)など、苦しい抵抗を続ける戦争末期である。 <br /> 8月6日には広島に米軍の残虐極まる原子爆弾を落とされて、私もそのショックを受けたのであるが、それが戦争終結の最終的契機となることはご承知の通りである。<br /> 9月20日に復員し、無事東京立川の自宅に帰れたが、一週間後に上智大学の卒業式を焼け残った校舎の事務室で、卒業証書を総長代理の吉安健吉先生から受けて、ともかく文学士となったのである。そのときはたった5名の学生が参集したものであった。やがて、私は土橋八千太先生からお勧めを受けて、上智大学図書館に勤務することになり、他所に疎開してあった図書を元に戻したり、また米国など海外から新着する図書を受け容れ、分類して配架したりする作業を一年間続けたのである。<br /> 敗戦から、すでに70年を過ぎた今、ともあれ平和日本に安住している。今の母校の教授、学生たちは、もう全くあの大戦の実態を知らないであろう。遠い昔のお伽噺のように感じられるかも知れない。しかし、ソフィアの校歌を謳った学生たちの何十人かが、あの大戦で戦死して、再び母校に戻ることが出来なくなったという事実を、厳粛に考えて欲しいと思う。<br /> 私たちの世代は、死線に追いやられ戦争の悲惨さ、反道徳性をイヤという程知っており「絶対に戦争をしてはならない」と心から念じている。<br /> 今、予科生のとき、同級だった河野敬(誉之)君の壮烈な特攻戦死を悼みつつこの一文を記す。<br /><br /><p id="d"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>学徒動員体験者の証言<br />《追悼》戦闘機でB29に体当たりした学徒動員上智大学生<br />江副隆愛(1947文史 学徒動員海軍航空兵・現新宿日本語学校学園長)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /><br /><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093347316.jpg" alt="7_江副隆愛氏91歳-s" border="0" width="430" height="323" /><br />江副隆愛氏<br /><br /> 戦後70年を迎え、戦闘機でB29に体当たりした学徒動員による上智大学生がいたことを知った。河野敬少尉(昭和16文哲入学、陸軍航空兵で昭和20年4月7日東京上空B29を撃墜して戦死)です。<br /> 今でこそ、私たちの過ごした時代を軍国主義にまぶされた暗い時代と言われますが、それを生きた私たちにも、青春という時代がありました。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093322fb9.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419093322fb9.jpg" alt="5_河野氏戦死記事_IMG_2928-s" border="0" width="430" height="323" /></a><br />河野敬少尉の戦死を報じた昭和20年5月7日付毎日新聞<br /><br /> 私たちは突然戦争に引きずり込まれたのです。それまで日本を仮想敵国として周到に準備していたアメリカに無謀な戦いを挑んだのです。それまでは不意打ちで得た勝利でした。緒戦の華々しい戦果に酔いしれたまま、勝利の夢がほころびにほころんでも、国民の殆どは“われ関せず”だったのではないでしょうか。<br /> これではならぬと立ち上がった若者たちがいます。海軍で言えば、第13期飛行予備学生、陸軍で言えば、陸軍特別操縦見習士官第1期生に応募した大学生たちでした。<br /> 彼らは親に隠れて応募しています。親に言えば「なんでそんな危険な飛行機乗りにならねばならぬのか」と、反対されるに決まっていたからです。現在の若者たちには想像もつないかもしれませんが、その頃の私たちは、自分を若侍ととらえ『武士道といふは死ぬ事と見付けたり』を金科玉条としていました。死に場所を与えてほしかったのです。<br /> 震天制空隊に属した河野敬少尉の心中もそうであったに違いありません。一機一艦を屠るのも、B29を叩き落とすのも、当時の特攻隊員にとっては、掛替えのない死に場所だったといえます。河野少尉と同時に飛び立ち、他のB29に体当たりした古波津里英少尉は落下傘降下を試み、九死に一生を得ています。河野少尉にも、体当たりの瞬間に、命があって操縦席から落下傘を外す機会はあったかもしれません。しかし、死に場所を得た河野少尉は、歌っていたかもしれません。特攻隊がよく口ずさんだ“五木の子守歌”を。<br /> ♪ おどま盆ぎり 盆ぎり      盆から先や おらんど……<br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933209b9.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933209b9.jpg" alt="4_海軍甲種飛行予科練習生ポスター_IMG_2926-s" border="0" width="430" height="216" /></a><br />海軍甲種飛行予科練習生募集のポスター<br />(国立歴史民俗博物館展示より)<br /><br /><p id="e"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>長崎に原子爆弾を投下したB29を見上げていた<br />故 石井恭一(1948経経・学徒動員陸軍高射砲部隊)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /><br /><a href="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933454eb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201504190933454eb.jpg" alt="6_B29イメージ図_IMG_2927-s" border="0" width="430" height="214" /></a><br />B29アメリカ戦略爆撃機(国立歴史民俗博物館展示より)<br /><br /> 戦争末期、おそらく私は、クラスの中で一番最後になったのではないかと思いますが、大分の軍隊に入りました。長崎、大分県の本籍地をもった少年兵、約50名が長崎に集められ、長崎を取り巻くように高射砲部隊が5つ、6つあったのですが、私は一番右の方の三菱造船所の後ろの高射砲隊に配属されました。これが命拾いになったわけです。<br /> ご承知のように8月9日、B29は原子爆弾を積んでまず小倉に参りました。原子爆弾を積んで小倉の上空に行きましたら、小倉は雲がずっとかかっていて、原子爆弾の投下の際に下が見えない。投下するに際しては、「必ず投下するのを目撃し、爆発するのを目撃せよ」そういう命令があったわけです。<br /> それで小倉をグルグル回ったのですが、とても雲が厚くて、命令どおりの投下ができない。それで第2目標の長崎へ参りました。ところが当時、長崎の上空は幅5キロ、長さ20キロの雲が覆っておりました。で、B29はそこまで来るのに燃料がいっぱいだったのです。もう、これは長崎は、一遍上空を通過するしかない。原爆を投下するか、しないかは1回しか機会がない。だめなら、そのまま基地に帰るというところまで進んできましたから、爆撃士が機長に「右前方に市街地が見えます」というので、そちらの方に変進してくれと言われました。確かに前方を見ますと、雲の切れ目からちょうど市街地が見えたのです。それで「これしか機会がない」というので、機長がそちらの方にB29を変進しまた。それで原子爆弾を投下いたしました。そして急激に左旋回をしながら雲から出た。それをちようど私は下の高射砲隊から見上げておりました。その距離が、まっすぐに来たら、おそらく私は20歳の人生を終えていたと思うのですが、斜め右に進路を変えましたので、爆心から5キロになりました。そのために非常に熱風と強烈な爆風は受けたのですが、幸い命を取り止めました。しかし、私はそれを運がよかったとは思っておりません。私が命拾いをしたとき、5キロ離れたところでは7万、8万の方が命を落としておられたので、これは自分が運がよかったということはとても言えないと思っております。<br />(元社会福祉法人ラ・サール会理事長、第14回コムソフィア賞受賞記念講演より抜粋、「コムソフィア」第48号より)<br /><br /><p id="f"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>上智大学出陣学徒戦没者名(敬称略順不同)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br />下中 達郎  昭和16年12月商学部商学科卒業 昭和20年5月、戦死<br />大国 武夫  昭和16年12月商学部経済学科卒業 戦死<br />吉岡 正人  昭和17年9月文学部哲学科卒業 戦死<br />石津 泰   昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死<br />小田 昌之  昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死<br />沢原 鴻   昭和17年9月商学部商学科卒業 戦死<br />関口 芳男  昭和17年9月商学部経済学科卒業 戦死<br />鈴木 信男  昭和17年9月商学部経済学科卒業 戦死<br />楠  剛太  昭和18年9月文学部英文学科卒業 昭和19年、外地南方戦死<br />大池 達夫  昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年、戦死<br />太田栄次郎  昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年4月、南西諸島方面で特攻戦死<br />三箇 三郎  昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和20年4月、藤沢基地で戦斗812飛行隊にて殉職<br />清水 育夫  昭和18年9月商学部商学科卒業 昭和19年11月、台湾北西海面にて戦艦金剛乗組雷撃戦死<br />陣内 敬   昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和19年、戦死<br />北崎 暹   昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和19年10月、比島東方海面飛行中戦死<br />恩地 昌郎  昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和20年8月、厚木海軍工廠銃撃戦死<br />時田 行郎  昭和18年9月商学部経済学科卒業 昭和21年、シベリア抑留中病死<br />新保 弘   昭和18年9月専門部商学科卒業 昭和20年2月、カムラン湾で海防艦野風艦上にて戦死 <br />伊東宏一郎  昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年4月、東京湾上空戦死  <br />黒井 清達  昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年2月、マニラ東方アパリ近郊にて戦死 <br />横川 亮   昭和19年9月商学部経済学科卒業 学徒出陣昭和19年、マニラ近海にて戦死<br />大江桂一郎  昭和19年9月専門部経済学科卒業 学徒出陣昭和20年4月、比島にて戦死<br />清水 政周  昭和19年9月予科終了 学徒出陣昭和20年5月、戦死<br />前田 久雄  昭和20年9月文学部独文学科卒業 シベリア抑留中死去<br />河野 敬   昭和21年文学部哲学科卒業相当 学徒出陣昭和20年4月、川口市上空戦死<br />松本 光憲  昭和21年文学部独文学科卒業相当 学徒出陣昭和20年5月、西南諸島方面特攻戦死<br />武井 満   昭和21年商学部経済学科卒業相当 学徒出陣昭和20年5月、西南諸島方面特攻戦死<br />島谷彰一郎  昭和21年経済学部商学科卒業相当 学徒出陣戦死<br />大溝 徹郎  昭和21年文学部史学科卒業相当 学徒出陣戦死<br />桜井 織馬  昭和21年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣戦死<br />藤堂 藤松  昭和21年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣戦死<br />大橋 清明  昭和22年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣横須賀武山学生隊にて殉職<br />森  荘一  昭和22年経済学部経済学科卒業相当 学徒出陣昭和20年4月、比島クラークフィールドにて戦斗804飛行隊で戦死<br /><br />この名簿は1993(平成5)年発行の『上智大学創立80周年記念ソフィア会名簿』上巻掲載のもので、昭和16年12月~昭和20年3月卒業生とこの間に在学していた就学諸兄で、調査委員会で特定できた方のお名前のみを記載したと注記されています。掲載された以外に上智大生の戦没学徒についての情報のある方は、マスコミ・ソフィア会(info@cumsophia.jp)にご連絡ください。<br /><br /><p id="g"><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"><戦後70年を迎えて>終戦が半年早ければ<br />磯浦康二(1957文新)<br /><hr style="border-top:4px double #0000ff;width: 100%;height:3;"></p><br /> 諸先輩の戦時中の体験記を読み、改めて70年前の悪夢がよみがえり胸が一杯になる。★当時私は、夜はゲートルを着けて眠り、空襲警報のサイレンで飛び起き防空壕に入る毎日だった。昭和20年4月13日夜、B29爆撃機500機に襲われ焼夷弾が雨あられと降り注ぐ中を逃げ惑う。東京は一面の焼け野原、黒焦げの焼死体があちこちに転がっていた。★日本の敗色が濃厚となった昭和20年2月初旬ヤルタ会談が行われ、ソ連のスターリン首相は「ドイツが降伏した3ヶ月後に日本に対して参戦する」とアメリカのルーズベルト大統領と密約を交わした。ストックホルム駐在武官の小野寺信少将は、早くも2月中旬にこの情報を察知し東京の陸軍参謀本部に打電した。しかし参謀本部は何故か握りつぶす。その後7月、日本政府はソ連に戦争和平仲介を依頼しようとして断られ、まるでマンガのような事態を招く。★軍事機密を盾に負け戦を国民に隠し、神風が吹くと唱えて漫然と戦争を続け、昭和18年「学徒動員」を行う。当時の高級参謀や日本の職業軍人は有為の若者を戦場に駆り立て多くを死なせた。特攻隊の指揮官たちは「俺も後に続くぞ!」と言いながら結局誰も飛び立たなかったという。★特攻隊の建前は「志願」だが実態は「命令」だった。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」を「葉隠」から抜き出して利用。私たちの年代は生まれた時からアジア太平洋戦争(15年戦争)が始まっていたため「天皇陛下のために死ぬことが国民の義務である」と徹底的に教育され、当時は疑問に思わなかった。★特攻で戦死した先輩たちの心情を思うと涙が止まらない。そして当時の軍への怒りがこみ上げてくる。もし半年前の2月中旬に戦争を止める動きがあれば「東京大空襲や全国の都市空襲」も「原爆投下」も「沖縄の激戦」もなかった。戦争指導者は敗戦責任をどうとったかを問い直すことが必要だ。<br /><br />以上<br /><br />
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ピタウ先生さようなら

昨年12月26日に逝去された故 ヨゼフ・ピタウ大司教の葬儀ミサと告別式が1月14日(水)午後1時半から、東京四ツ谷の聖イグナチオ教会主聖堂で厳かに挙行された。正面にピタウ先生のにこやかな写真が飾られ、天皇・皇后両陛下の花も飾られて約1,300人が参集。式は宗教法人カトリックイエズス会、学校法人上智学院の共催で、梶山義夫イエズス会日本管区長の主司式、50人の司祭による共同司式。髙祖敏明上智学院理事長が福音朗読、続い... 昨年12月26日に逝去された故 ヨゼフ・ピタウ大司教の葬儀ミサと告別式が1月14日(水)午後1時半から、東京四ツ谷の聖イグナチオ教会主聖堂で厳かに挙行された。正面にピタウ先生のにこやかな写真が飾られ、天皇・皇后両陛下の花も飾られて約1,300人が参集。式は宗教法人カトリックイエズス会、学校法人上智学院の共催で、梶山義夫イエズス会日本管区長の主司式、50人の司祭による共同司式。髙祖敏明上智学院理事長が福音朗読、続いて説教を行いピタウ大司教の宣教と愛と感謝に満ちた一生を紹介。<br /><br /> 告別式では和泉法夫前ソフィア会会長が弔辞で、上智大学が大学紛争で苦難の時代に、学生に理解を示しながらも、ここぞという時には毅然とした態度で事態を解決に導かれたなど思い出を語った。<br /><br /> 最後に讃美歌と校歌の流れる中、参集者が花を手向けた。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-76.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20150419092427c5a.jpg" alt="ピタウ先生さよなら" border="0" width="430" height="323" /><br /><br />
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