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【開催告知】11月特別講演会・=海外で日本人が事件事故に出遭うということ=

マスコミソフィア会・11月特別講演会開催のお知らせ今回は、以前からマスコミソフィア会への投稿などでもご紹介している海外生活カウンセラー・福永(江見)佳津子('46文英)氏に、一般マスコミには報道されなかった9.11の状況やエピソード、その現場からみた海外における日本人の安全確保・危機管理の問題を具体的な事例を挙げてお話しいただきます。福永氏は、9.11のテレビ報道を見て、すぐにニューヨークに飛び、現地で、取材... <table border="1" cellspacing="5" cellpadding="5" width="540"><tr><td><font size="4"><strong>マスコミソフィア会・11月特別講演会開催のお知らせ</strong></font></td></tr></table><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110803113205e2a.jpg" alt="福永さんs" border="0" width="120" height="120" align="left" hspace="10" />今回は、以前からマスコミソフィア会への投稿などでもご紹介している海外生活カウンセラー・福永(江見)佳津子('46文英)氏に、一般マスコミには報道されなかった9.11の状況やエピソード、その現場からみた海外における日本人の安全確保・危機管理の問題を具体的な事例を挙げてお話しいただきます。<br /><br />福永氏は、9.11のテレビ報道を見て、すぐにニューヨークに飛び、現地で、取材をされ新聞へ連載記事を投稿なさいました。また、以前NYで邦人のための電話相談室カウンセラーをされていた同氏は現地では、赤十字のボランティアにも登録され、積極的に活動されました。みなさまお誘い合わせの上ご参加頂ますようよろしくおねがいします。<br /><br /><hr>マスコミソフィア会11月講演会<br />テーマ:~海外で日本人が事件事故に出遭うということ~「 9.11から10年・現場取材からの報告」<br />講演者:海外生活カウンセラー・福永(江見)佳津子('46文英)氏<br />日 時:11月17日(木)18時30分~21時(懇親会も含む)<br />場 所:上智大学ソフィアンズクラブ<br />参加費:会員1000円、非会員2000円(学生は500円)<br /><br />参加ご希望の方はマスコミソフィア会まで下記メールあてにお申し込み下さい。(締切り11月15日)<br />info@cumsophia.jp<br /><br /><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/sophiansclub_map.gif" alt="sophiansclub_map.gif" border="0" width="400" height="341" /><br /><br />マスコミソフィア会ホームページの福永さんからいただいた投稿記事も合わせて御覧ください。<br /><a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-120.html" title="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-120.html">http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-120.html</a><br /><br /><hr size="1" />福永さん略歴<br />上智大学文学部英文学科卒。在ニューヨーク6年。マンハッタンビルカレッジで修士号取得。帰国後は海外生活カウンセラーとして講演、執筆多数。NHK趣味悠々「サトウサンペイと楽しむ海外旅行術(ロングステイ)」講師など。著書に「ある日海外赴任」「アジアで暮らすとき困らない本」など。海外邦人安全協会理事。ロングステイ財団政策審議会委員。
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東北の秋~釜石でのボランティア活動報告

東北の秋 釜石でのボランティア活動報告     心のケアなどソフトの支援が必要に村尾憲治(経営'77)□4月に「震災支援ボランティア活動記※クリックするとリンク」を投稿いただいた村尾憲治さん(77経営)から、釜石市でのボランティア活動と被災地の様子について、最近の報告をいただきました。□9月下旬に1週間ほど岩手県釜石でボランティア活動をしてきました。□今回はカリタスジャパン(カトリック教会社会福祉活動機関)の... <span style="font-size:large;"><blockquote><p>東北の秋 釜石でのボランティア活動報告<br />     心のケアなどソフトの支援が必要に<br />村尾憲治(経営'77)<br /></p></blockquote><br /></span>□4月に「<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-96.html" title="震災支援ボランティア活動記">震災支援ボランティア活動記</a>※クリックするとリンク」を投稿いただいた村尾憲治さん(77経営)から、釜石市でのボランティア活動と被災地の様子について、最近の報告をいただきました。<br /><hr size="1" /><br />□9月下旬に1週間ほど岩手県釜石でボランティア活動をしてきました。<br />□今回はカリタスジャパン(カトリック教会社会福祉活動機関)の釜石ボランティアベースでの支援活動に参加しました。瓦礫整理は進み、避難所は仮設住宅へと変わり、6ヶ月以上たって全体の復旧は進んだ感がありますが、個々には、まだまだたくさんの課題があります。<br />□多くの日本人は日々の忙しい生活の中で3.11が過去の災害の一つとなって小さくなっています。ただ、時間が経ち現地現場や人々の心が変化する事によって見えてくる事もあります。日本の将来のために、<br />One For All All For Japan !! Remember  3.11<br />+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<br /><span style="font-size:large;">▼家族でさえバラバラにされる仮設住宅</span><br /><br />□これまでの過去3回の東北入りは、瓦礫撤去などばかりでしたが、今回は、被災者や現地支援者とゆっくり話す時間を持てたことが収穫です。岩手県釜石市は、元新日鉄の城下町で産業は、製鉄と漁業や水産加工業が中心の町です。<br />□現在では避難所はほとんどなくなり、被災者は、市内約50ヶ所の仮設住宅団地に、抽選順にバラバラに入居しており、そこでの生活支援、心のケアなどソフトの支援が増えてきています。<br />□具体的には、仮設住宅訪問で困っていることや要望事項のヒアリングや集会室などでの<カフェサロン>や炊き出しなど、直接被災した方にお会いできる機会が多く、心の通い合わせがたくさん出来ました。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423454246e.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423454246e.jpg" alt="13複数のボラ団体共同の炊き出し(栗林仮設)-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真No.13 複数のボラ団体共同の炊き出し(栗林仮設))<br /><br /><span style="font-size:large;">▼被災者に寄り添い、気持ちを分かち合う</span><br /><br />□彼らの困苦は、家族や家を無くしてまだ気持ちの整理がつかないままなのに、仮設団地はおおむね小規模で、かつ抽選なので近所の人と一緒に入れず、コミュニティが分断され、仮設住宅サイズや家族構成により家族でさえ、バラバラとなり、個室になるがゆえに孤独との戦いも始まります。<br />□高齢者の一人暮らしも多く、行政が見切れない分、地元にベースのあるNPOや長期ボランティアさん達が定期的に個別訪問し、集会室などではコミュニティサロンやイベントなども取り組み、新しい<コミュニティ形成>を支援します。現地支援者や長期ボランティアのメンバーと共に、被災者と<寄り添って気持ちを分ち合う>というとても貴重な経験ができました。<br />□また流れたあと海水や泥に汚れた被災者の写真洗浄と再生整理、公開(持ち主探し)という、これも地味な活動ですが、家を流され残された家族の大事な思い出を再生し戻すという意義あるお手伝い経験ができて良かったです。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423481922a.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423481922a.jpg" alt="2大槌 写真返却展-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真No. 2大槌 写真返却展)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024234920887.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024234920887.jpg" alt="3大槌 膨大な写真の展示の前で-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真No. 3大槌 膨大な写真の展示の前で 筆者)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼求められる継続的な支援</span><br /><br />□こうした事情の変化に伴い、ボランティアに参加するメンバーも多様化しており、現役の大学教授や、診療所の副院長や、教会の信者で年配の女性や、聖心女子学院高校の高校生が母親と参加とか、就職が決まった女子大生などが、南は長崎五島列島から、関西関東と広範囲なところから支援者が来ています。変わったところでは、CRASH JAPANというプロテスタント系の団体で、米国テキサスやカリフォルニア、ハワイなどから米国人、そしてフィリピンの人たちも参加し、基本的には自己経費負担で現地でのボランティア活動をしていました。<br />□我々は自宅に帰ればすぐに普通の生活に戻れますが、現地で被災した方たちは、いつまでこの状態(住む場所、仕事)が続くか分からない中で寒い冬を迎えます。このことを私たちは、普段の生活のなかで常に頭の片隅に残しておくべきだと思います。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423503498e.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2011102423503498e.jpg" alt="8地盤沈下で水がたまり、住めなくなった街並 み 釜石-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真No. 8地盤沈下で水がたまり、住めなくなった街並 み 釜石)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼素敵な無償ボランティアの人たち</span><br /><br /> そして何よりも良かったと思うことは、今回お世話になったカトリック釜石教会にあるカリタスジャパン釜石ボランティアベースでの継続的な支援活動の基盤がしっかりできていて、現地の被災者の心の支えになっていること、また大きな炊き出しイベントなどには、無料の炊き出しの食事提供だけでなく、専門の健康医療相談やマッサージサービス、心のケアよろず相談スタッフまでそろえてワンストップで支援、サービスを提供できていること、そしてそれらがいくつかの得意分野を持つ支援組織(NPO,NGO)のコラボで出来上がっていることなどです。<br />□ともすると末端までのケアや横の面の連携が不十分な自治体や社協をしっかり補う形で、NPOが機能していることが良く分かりました。<br />□それらの組織には長期間、継続的に支援に携わっている素敵な無償ボランティアの人たちがたくさんいて、そうした人たちに出会えたのも大きな収穫でした。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110242351227af.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110242351227af.jpg" alt="14.ONE FOR ALL ALL FOR JAPAN 釜石教会食堂-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真No. 14.ONE FOR ALL, ALL FOR  JAPAN 釜石教会食堂)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼自分を振り返り、社会を考える機会に</span><br /><br />□皆さんも一度、東北ボランティアへ行ってみませんか?<br />□日常生活を離れ、しばし被災者と寄り添い、現地支援者と同じ釜の飯を食い一緒に生活する事により、少しばかりの現地直接支援となりますし、自分のこれまでの人生を振り返り、これから先の自分や社会を考える大変いい機会を与えてくれます。時間さえ都合をつければ、費用は限られたもので活動できまし、何より現地では、末永い心の支援が喜ばれ、同期ボランンティア仲間の連帯や友情も生まれ、「充実と満足感」を持って帰京できます。(了)<br /><br />注=カリタスジャパン釜石ボランティアベースの連絡先は0193-22-1165<br />  Crash Japanの連絡先は050-1213-1388<br /><br /><br />(写真:未だに生々しい震災跡を残す釜石・大槌の様子(村尾さん撮影))<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024235331ee4.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024235331ee4.jpg" alt="6大槌 6ヵ月たった後もなお進まぬ復興-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真6. 大槌 6ヵ月たった後もなお進まぬ復興)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024235331467.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111024235331467.jpg" alt="10月から解体がはじまるというが、、、-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真:10月から解体がはじまるというが、、、)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110242353307b5.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110242353307b5.jpg" alt="15今は嘘のように静かな海を見守る観音様 釜石-s" border="0" width="430" height="322" /></a><br />(写真15. 今は嘘のように静かな海を見守る観音様 釜石)
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アイアンクラブ・ノーベル賞学者 野依良治博士 講演会

アイアンクラブ・ノーベル賞学者 野依良治博士 講演会(七洋会)日時:2011年9月27日(火)12時00分から14時00分場所:東京・鉄鋼会館要旨まとめ:東京エグゼクテイブ・サーチ株式会社副社長 加藤春一('68経経)2011年10月9日今年は、ノーベル各賞に日本人受賞者は惜しくもありませんでしたが、2001年にノーベル賞化学賞を受賞された、野依良治博士の講演会が先日あり、大変興味あるお話を伺いましたのでご報告いたします。■自... <table border="1" cellspacing="5" cellpadding="5" width="480"><tr><td>アイアンクラブ・ノーベル賞学者 野依良治博士 講演会(七洋会)<br />日時:2011年9月27日(火)12時00分から14時00分<br />場所:東京・鉄鋼会館<br />要旨まとめ:東京エグゼクテイブ・サーチ株式会社副社長 加藤春一('68経経)</td></tr></table><br />2011年10月9日<br /><br />今年は、ノーベル各賞に日本人受賞者は惜しくもありませんでしたが、2001年にノーベル賞化学賞を受賞された、野依良治博士の講演会が先日あり、大変興味あるお話を伺いましたのでご報告いたします。<br /><br />■自然科学の原理について思うこと<br /><br /> 宇宙を支配する自然を科学する「自然科学」の原理は揺るがない。<br /><br />■福島原発について思うこと<br /><br /> ・技術選択の間違い<br /> ・運営管理の問題<br /> ・政治の思惑<br /><br /> 全て人間の判断力と心の問題で 人間の問題から派生した人災である<br /><br />■科学者の使命と科学の本質に対する認識不足について<br /><br /> スーパーコンピュータの事業仕分けで話題になったように、科学の世界では、世界オンリーワン、<br /> ナンバーワンでなくてはならない。<br /> 政治家や官僚の世界観や科学への認識、将来への洞察などなど全てにおいて最悪。全く低レベルである。<br /><br />■宇宙観と死生観<br /><br /> 宇宙が誕生して138億年、物質世界は10の26乗にもなり、相対する反物質の世界では10のマイナス25乗まで<br /> ミクロが続く<br /> この差異から出た人類は「もえかすーちり」みたなもの・・・<br /> 人類は自己中心的思考から脱却する必要あり。<br /> <br /> 「物質不滅則」「万物流転」「輪廻転生」<br /> 人間は死ねば骨になりこれは炭素で出来ているので不滅 魂はわからない<br /><br />■Science based technology(技術基盤の科学分野)<br /><br /> 無限の多様性  人類存続  社会の持続に絶対必要<br /> 20世紀はイノベイションの時代だった:20の発明ー>鉄、車、飛行機、コンピューター etc<br /><br /> 日本は世界2位の技術基盤国家:スーパーコンピューター、X線自由電子レーザー「SACLA」世界最短波長<br /><br />■20世紀は科学技術による価値創造がなされた時代~その光と影~<br /><br /> 光  「寿命」が40歳から80歳まで延びた<br />    「人間の能力」が「外的」に拡大・・・外的環境を劇的に変化させた<br />    「巨大な経済効果」・・・アメリカ経済の85%が技術の恩恵である<br /><br /> 影  「科学者当事者の責任回避」多数<br />    「人口爆発」70億から90億へ・・・市場主義経済蔓延<br />    「産業技術の発展」<br />    「生活様式の変化」1. 気候変動 2.環境劣化 3. 資源枯渇 4.南北格差     <br />     the best and brightest の科学者が責任を取らない結果<br />     例:福島原発  2004年に全米アカデミーで危機を予測<br />    「意思決定の能力・見識の欠如」政治家 学者 経済人然り・・・<br /><br />■21世紀に卓越した科学技術立国にするためには<br /><br /> 基礎科学が人類の根源知で文化遺産であることを深くリーダーが認識し<br /> イノベイションにより国際競争力をつけてー国際貢献に繋ぐ必要あり<br /><br /> 圧倒的科学技術力ー>卓越した技術を創造する人材を育成する必要あり<br /> 領域は広大ー>ライフサイエンス 情報通信技術 環境基盤整備<br /> ナノテクノロジー エネルギー 物づくり<br /> 社会基盤整備  空、海 へのフロンテイア<br /><br /> 「ONLY ONE」「NUMBER ONE」を目指さないと生き残れない<br /><br /> 日本には 光ファイバー 光触媒 レーザー 青色ダイオード トンネル磁気 自然エネルギー<br /> Ips細胞などなど<br /><br /> 次期ノーベル賞候補はいるが、この後の人財が現在の日本の教育システムから出てくるか心配   <br /><br /> 日本は世界の科学技術水準ではアメリカに次ぐ、ノーベル賞もアメリカに次ぐ。<br /><br /> ゲーテの言葉:「知るだけでは駄目、知を活用しなければ意味が無い、意志があるだけでは駄目、<br /> 実行しなければ意味が無い」<br /><br /> 自分(野依氏)が好きな名言だが・・・<br /><br /> 日本には科学技術力を相互に繋げるMANAGEMENTの力が不在である<br /><br />  SCIENCE ---アインシュタイン <br />  TECHNOLOGY---エジソン<br />  ENGINEERING----フォード<br />  INNOVATION----ステイーブ ジョブス<br /><br /> 個人知ー>機関知ー>社会知 に繋がらないと意味が無い<br /><br /> 確かにパスツールは「科学には国境が無い、科学者には祖国がある」と名言を吐いたが・・・<br /><br /> 日本は政府も大学も最悪、最低・・・とても「KNOWLEDGE BASED SOCIETY」とはいい難い。<br />     <br /> 全て問題や課題を先送りにしてきた責任は重い。<br /><br />■日本人ノーベル賞受賞者について<br /><br /> 15人のうち3分の1が海外頭脳流出科学者が受賞<br /> 日本で勉強した受賞者は9人<br /> 現在は世界の頭脳競争の時代で、アメリカの大学が物理・化学・生理学・医学など<br /> 全ての分野で世界のリーダーである。<br /><br /> 昨年、アメリカの科学分野で、博士号を取得した国別内訳は以下の通り:<br /><br /> 日本:235人、中国:4,395人、韓国:1,137人、台湾:462人、インド:1,956人<br /> アフリカ:466人、トルコ:436人、ヨーロッパ:1,771人<br /><br /> 世界の知的ネットワークが広がる中、これでは日本のガラパゴス化は避けられない。<br /><br />■日本の高等教育について<br /><br /> 日本の科学技術研究従事者数:<br /><br />  研究者   71万人(修士レベル)<br />  アカデミア 18万人(博士レベル)<br />  国立大教員 6万人<br /><br /> OECD 26カ国のうちで日本は最低 GDP比率の0.6%<br /> OECD平均で1.3%・・・日本は教育費用に3兆円上乗せが必要<br /><br />■世界の科学技術動向:<br /><br /> 国連コフィーアナン総長<br />  WATER<br />  ENERGY<br />  HEALTH<br />  AGRICULTURE<br />  BIO DIVERSITY<br />  POVERTY<br /><br /> 日本は「限りある地球の枠組みの中で人類の生存に貢献 <br /> 国になり多くの貢献できる科学者を育てる必要あり」<br /> その為に抜本的、根本的教育制度改革がMUSTである。(了)
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NHKスペシャル「奇跡の生還」が国際エミー賞受賞

NHKスペシャル「奇跡の生還~スクープ チリ鉱山事故の真実~」(2010年10月24日放送)が国際エミー賞の「時事問題部門」の最優秀賞に選ばれました。取材・制作を担当したのはNHK報道局ディレクターの石川俊樹さん(外・イスパニア語学科 96年卒)とサンパウロ支局 記者の佐々文子さん(外・イスパニア語学科 98年卒)です。ニューヨーク 9月26日 授賞式の会場にて 左からNHK サンパウロ支局記者佐々文... NHKスペシャル「奇跡の生還~スクープ チリ鉱山事故の真実~」(2010年10月24日放送)が国際エミー賞の「時事問題部門」の最優秀賞に選ばれました。取材・制作を担当したのはNHK報道局ディレクターの石川俊樹さん(外・イスパニア語学科 96年卒)とサンパウロ支局 記者の佐々文子さん(外・イスパニア語学科 98年卒)です。<br /><hr size="1" /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111008010842616.jpg" alt="エミー賞会場にて" border="0" width="430" height="286" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111008010842616.jpg')" /><br />ニューヨーク 9月26日 授賞式の会場にて 左からNHK サンパウロ支局記者佐々文子さん、チーフ・プロデューサー小山大祐さん, 報道局ディレクター石川俊樹さん(クリックで拡大)<br /><br />「国際エミー賞」は、世界およそ50カ国にある500の放送機関が加盟する「国際テレビ芸術科学アカデミー」がアメリカ以外で制作された優れたテレビ番組に贈る賞です。日本のメディアが「時事問題部門」で受賞するのは初めてのことです。<br /><br />受賞作は、昨年8月に南米チリ北部のサンホセ鉱山で起きた落盤事故で、地下700メートルの空間に閉じ込められた33人の作業員が救出されるまでの70日間を追ったものです。当初、生存は絶望視されていましたが、事故から17日目、地下から1通の手紙が届きました。そこには「Estamos bien los 33 en el refugio(俺たち33人は避難所で生きている)」と書かれていたのです。この瞬間から33人の救出作業は世界中のメディアの注目を一気に集めることになりました。<br /><br />佐々さんは生存確認の翌日から現地入りをして取材を開始。石川さんは別の番組の取材をするためアメリカに出張していましたが、東京から「帰国の予定を変更しチリに向かってほしい」との連絡が入り、急きょ、現地入りすることになりました。お二人が直面した状況は過酷そのものでした。<br /><br />皮膚を焼くような砂漠の太陽、昼30℃、夜5℃という気温の変化。チリ政府による厳しい取材規制。世界各国から集まった、数百とも言われるメディアとの競争。こうした逆境の中、NHKの取材班はどのようにして、誰も伝えたことがない映像を撮ることができたのでしょうか。<br /><br />以下は、石川さんから当会にいただいたメッセージです。<br /><br /><blockquote><p>地下深くに閉じ込められた男たちをどうやって救い出すのか。世紀の救出作戦が行われていたサンホセ鉱山の現場には、チリのテレビ局、新聞社だけでなく、アメリカCNN、イギリスBBC、カタールのアルジャジーラなど、各国から数え切れないほどのメディアが集まっていました。<br /><br />チリ政府による取材規制は厳しく、救出作戦の舞台裏を取材するという私たちの当初の狙いは実現不可能になっていました。そうした中、取材を通して信頼関係を深めていたある作業員の家族との出会いによって道が開けました。「地下にいる兄がカメラをほしがっているのだが」という相談があったのです。<br /><br />私たちは早速、小型のハイビジョンカメラに撮影方法や撮って欲しい映像の内容を記した手紙を添え、密かに地下に送り届けました。救出後に私たちに提供された映像には、それまで誰も目に下のことのない、地下生活の実態が記録されており、これが番組の根幹となったのです。<br /><br />日本のテレビ局として初めての受賞を大変光栄に思っています。協力してくれた作業員やその家族、取材・制作の過程で苦楽をともにした多くの仲間たちに深く感謝をしています。</p></blockquote><br />『苦しみながら、しかし最後には やって良かったと思えた1本です。』。放送後、石川さんはそう語っていました。日本で初めての国際エミー賞「時事問題部門」受賞というすばらしい結果に、心からお祝い申し上げます。今後のご活躍をお祈りします。(文:山田洋子 '77外独)<br /><hr size="1" />番組案内<br />授賞式の様子とあわせて番組の再放送が予定されています。ぜひご覧ください。<br /><br />番 組 名:「とっておきサンデー」<br />     ※NHKスペシャルはこの放送枠の冒頭から放送されます。<br />放送日時:10月9日(日) 午前10:05~11:54(総合テレビ)<br /><hr size="1" />参考の関連HP<br />▽快挙!NHKスペシャルが国際エミー賞を受賞<br /><a href="http://www.nhk.or.jp/special/onair/jushou101024.html" target="_blank" title="http://www.nhk.or.jp/special/onair/jushou101024.html">http://www.nhk.or.jp/special/onair/jushou101024.html</a><br />▽朝日新聞<br /><a href="http://www.asahi.com/culture/update/0927/TKY201109270171.html" target="_blank" title="http://www.asahi.com/culture/update/0927/TKY201109270171.html">http://www.asahi.com/culture/update/0927/TKY201109270171.html</a><br />▽読売新聞<br /><a href="http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110927-OYT1T01197.htm" target="_blank" title="http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110927-OYT1T01197.htm">http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110927-OYT1T01197.htm</a>
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四ツ谷しんみち通りの名店「洋食エリーゼ」がとんかつ専門店に・・・

9月29日(木)、マスコミソフィア会幹事会のあとに、卒業後もたまに訪れていた、四ツ谷しんみち通りの名店「洋食エリーゼ」に、いつものことながら、懐かしのビーフ生姜焼きでも食べて帰ろうかと立ち寄った。行ってみたところ、なんか店構えが少々変だった。つい1ヶ月前に行ったときは、特に変化もなかったのに・・・。「洋食エリーゼ」と言えば、全国の洋食屋さんのランキングでも度々一位を獲得するほどの名店だ。私が学生時代の... 9月29日(木)、マスコミソフィア会幹事会のあとに、卒業後もたまに訪れていた、四ツ谷しんみち通りの名店「洋食エリーゼ」に、いつものことながら、懐かしのビーフ生姜焼きでも食べて帰ろうかと立ち寄った。行ってみたところ、なんか店構えが少々変だった。つい1ヶ月前に行ったときは、特に変化もなかったのに・・・。<br /><br />「洋食エリーゼ」と言えば、全国の洋食屋さんのランキングでも度々一位を獲得するほどの名店だ。私が学生時代のころは、数えきれないほどお世話になった。日本の洋食屋さんらしく、ハンバーグやカレーライス、オムライス、そしてカニクリームコロッケやビーフシチューに至るまで、どれをとっても天下一品。値段もリーズナブル。中でもビーフ生姜焼きは、今で言えば牛丼の具を生姜ベースで炒めたもので、豚肉しょうが焼きは数あれど、ビーフ生姜焼きというのはなかなかお目にかかれないシロモノだった。吉野家もそのころなかったし・・・。牛肉の料理を(たしか)1976年当初、650円くらいで定食で食べられたのだから、学生にとってはたまらない一品だった。<br /><br />授業の合間のランチ時や、クラブ活動のあとに、仲間とわいわい言いながらその日の思いつきで注文していたものだ。食べ盛りの時代。ビーフ生姜の肉のほうが先になくなってしまって、白いご飯だけ残ってしまったりすると、仲間から「やーい、おかずを先に食べすぎだぞ~、計画性がないんじゃないの?」なんて意地悪なことを言われたりしてたな・・・。<br /><br />店内は、四人がけのテーブルが手前に幾つかあって、奥はカウンターだったと思う。学食にあるようなプラスチックのテーブルにパイプ椅子のような感じで、コカコーラのロゴ付きのベンチなんかもあったように思う。ごく普通の定食屋さん。しかし味は絶品。学生時代の1970年代ですら、食事時はいつも店先に列が出来ていた。<br /><br />店先のメニューの見本が飾られているショーウインドも店の名物のひとつだった。別に蝋細工の見本を見てどれにするかを決めるわけでもないのに、あれがあると、さらに食欲が増す感じがしたものだ。<br /><br />しんみち通りにはもう一つ洋食屋があった。それが「キッチンバンビ」。ここも同じようなメニューだったが、ご飯の炊き方がちょいとゆるかった。エリーゼがあまりに混雑しているときは、やむなく、バンビで済ませるのだが、定食についたご飯が、僕に言わせれば、おかゆのようだった。でも、バンビはコンソメスープが付いてくる。それでなんとか白飯の損失を補っていたが、白飯で腹を満たしていた学生時代は、やっぱり白飯のおいしいところに行ってしまっていた・・。<br /><br />卒業後数年たって、エリーゼに行ったとき、店内の改築がされて、木目調のシックな出で立ちに変わっていた。もはや、学生時代の手軽な洋食屋から、おしゃれなビジネスマンが彼女とワインなんか飲むくらいのビストロ系に模様替え。でも味は全く変わらなかったし、その上、ビーフ生姜焼きからヒントを得たであろう「ビーフトマト焼き」というメニューが加わり、これが店の名物のにもなっていた。<br /><br />店の歴史は詳しくは知らないが、70年代からあったわけだから、もはや40年くらいの歴史のある洋食屋さんなのだ。ここ10年くらいは竹田さんという人が店主引き継ぎ、エリーゼの味を伝えているらしい。そんな、話の尽きない、青春の1ページの洋食屋さんが、なんと、「かつれつたけだ」という名前に変わってしまっていた。名物だったショーウインドもなくなっていた。しかし、店構えや店内のレイアウトなどはそのままだった。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002003953aec.jpg" alt="かつれつたけだ" border="0" width="480" height="358" /><br />(元エリーゼ、かつれつたけだ)<br /><br />ここまで来たからには、エリーゼがどっかに移転してしまって、新しい若者たちがやってる店でも、まあいいかと半分あきらめの気分で、店に入った。<br /><br />店内は、外から見たと同じく、ほとんど変わっていない。奥の壁には、エリーゼ時代から掛かっていたと思われる、四ツ谷周辺の1970年代と2000年代を比較する写真が飾られていた。もしかすると、エリーゼから若者が引き継いだのだろうか・・。ではエリーゼはもはや廃業してしまったのか・・・。そんなことはあるはずがない。あれほど人気で行列が出来る店を誰が廃業させるものか。<br /><br />メニューは「かつれつたけだ」だけあって、揚げ物のオンパレード。ビーフ生姜焼きやハンバーグなどはない。しかし、エリーゼにもあったカツカレーがあったので、これを頼んだ。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002003952651.jpg" alt="カツカレー" border="0" width="480" height="358" /><br /><br />待つこと約15分、出てきたカツカレーを食べて驚いた。美味しい・・・。カツのやわらかさ、いわゆる断面がミルフィーユ状になっている高級カツレツ。そして全体にまんべんなくかけられたカレーも、小麦粉とカレー粉で作ったクリーミィな洋食屋のカレーそのものだ。カレーに具もたくさん入っている。どれをとっても手抜きが全く感じられない。これはもしかして・・・。<br /><br />勘定をする帰りがけに、レジの若者に聞いてみた。「ここってエリーゼがあったところだよね、いつからかつれつに変わったの?」思いがけない答え。「実は今週からなんです」「え~そうなんだ、ひよっとして、エリーゼのスタッフ?」「そうです、店主の竹田が、長年やりたかったとんかつの専門店に、今週から変わったんです、スタッフもみんなエリーゼのスタッフですよ」<br /><br />お~~、エリーゼが移転したのではなく、エリーゼそのものだったんだ。だから味も絶品、店の中もほどんど変わってない。「でもビーフ生姜焼きとかはなくなっちやったんだね・・・。」スタッフによれば、フライパンを使うような「焼き物」をなくして、とんかつやメンチかつなどを中心とした「新生エリーゼ」に世代交代を果たしたということだった。<br /><br />店をあとにしてから思い出した。そうだ、エリーゼの名物と言えば「メンチカツ」もあった・・・。エリーゼのメンチは、一度揚げてから、レンジかなにかで焦げ目を入れてちょっと蒸すみたいな手の込んだ調理をしていたっけ・・・。あの味は引き継がれているのだろうか・・・。次回はぜひメンチカツを注文しなければ・・・<br /><br />青春の店「洋食エリーゼ」。もう40年近くも同じ形で続けて来たわけだから世代交代も必要だろう。しかし、あの青春の味は変わらぬまま店主が引き継いでくれている。「かつれつたけだ」も上智の学生の思い出の食堂になることを祈る。(文:土屋夏彦 '80理電)<br /><br />【追記】<br />この記事に大反響! 様々な方々から驚きの声と共に、なんとエリーゼで4年務めた高橋さんという方が8月に、四ツ谷荒木町に「キッチンたか」というエリーゼを継承する洋食屋さんをオープンしたという情報を頂きました。<br /><br />メニューは、「トマトのビーフ」「しょうがのビーフ」「バターのビーフ」「ポークソテー」「ポークジンジャー」(以上900円)、「ハンバーグ」(850円)、「カレーライス」(780円)、「バーグカレー」(950円)などなど・・。エリーゼのメニューが忘れられない方はこちらにも足を運ばれたらいかがでしょう。<br /><br />キッチンたか<br />新宿区荒木町3-1<br />TEL 03-3356-2646
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原サチコ ドイツで生きる 役者を生きる

■原サチコ ドイツで生きる 役者を生きる   =「原サチコ」が「原サチコ」について語る=■ドイツ文化センター主催講演会■2011年7月10日(日) 14時~16時 ドイツ文化会館ホール■聞き手:伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja7567518v.htm (写真①講演の様子 右:原サチコさん、左:伊達なつめさん)▼はじめに80年代から90年代にかけて東京の前衛的なアンダーグラウンド... <img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001234353dca.jpg" alt="最初の写真独文化センター" border="0" width="480" height="239" /><br /><br /><table border="1" cellspacing="5" cellpadding="5" width="480"><tr><td>■原サチコ ドイツで生きる 役者を生きる<br />   =「原サチコ」が「原サチコ」について語る=<br />■ドイツ文化センター主催講演会<br />■2011年7月10日(日) 14時~16時 ドイツ文化会館ホール<br />■聞き手:伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)</td></tr></table><br /><a href="http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja7567518v.htm" target="_blank" title="http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja7567518v.htm">http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja7567518v.htm</a> <br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235102e44.jpg" alt="講演の様子" border="0" width="480" height="360" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235102e44.jpg')" /><br />(写真①講演の様子 右:原サチコさん、左:伊達なつめさん)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼はじめに</span><br /><br />80年代から90年代にかけて東京の前衛的なアンダーグラウンド小劇場で活躍した俳優、原サチコさん(88外独)が新天地を求めてドイツに渡り11年。2004年に東洋人としては初めてオーストリアの老舗・ブルク劇場の専属俳優となり、5年間活躍した後、今はドイツ・ハノーファー市の州立劇場で専属俳優として活躍している。昨年はハノーファーで井上ひさし作「少年口伝(くでん)隊一九四五」を企画・提案・上演した。今までドイツ演劇界屈指の演出家と次々仕事をしてきた彼女の存在を知らないドイツ演劇人はいないほど。<br /><br />この7月に一時帰国した原さんは東京ドイツ文化センターで、演劇ジャーナリスト・伊達なつめさんとのトークショウの形で、波乱万丈の11年を振り返ってくれた。「学生時代は演劇漬けの毎日で全然勉強してませんでした」と謙遜する原さんですが、自分のやりたいことに突き進んでいけば、必ず道は開ける―という破天荒なストーリーに会場では笑い声が絶えなかった。<br /><br />日本人としてのアイデンティティーと自分自身に何ができるかを模索するなかで、俳優業だけでなく、広島、そして新たに起こった震災と現在の日本を自分なりにドイツで伝えていこうとする原さんの真摯な姿が浮き彫りされた。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110012351011c7.jpg" alt="会場" border="0" width="480" height="360" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110012351011c7.jpg')" /><br />(写真② 満員の会場の様子)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼大学1年で小劇場の舞台に</span><br /><br />「高校時代は親の理想通りの優等生で、英語以外に、もうひとつ外国語を学びたくてドイツ語学科に入りましたが、入学後は自分の人生は何だろうと思い、悩みました。80年代前半のバブル真っ盛りのなかで、華やかなキャンパスライフに馴染めず、大学では浮いた存在でした」<br /><br />大学1年のある日、下北沢で偶然、小劇場「演劇舎蟷螂」のチラシを見かけて、それまで演劇など見たこともなかったのに、思い立って受けてみたら合格、初めて舞台に立ってみると、今までになかった楽しさを覚え、両親には大学卒業までという条件付きでアングラ演劇の世界に足を踏み入れた。<br /><br />「学生時代は演劇漬けの毎日で劣等生でしたが、いくつか、今でも大切に思える講義を受けることが出来ました。ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」を読む講義や形而上学の講義・・中でもデーケン先生の『死の哲学』の授業はとても心に残るものでした。同級生に影響されて、大学3年の春休み、一人旅でドイツを旅行しました。東ベルリン(当時)のベルリナーアンサンブル劇場でお芝居を見ましたが、学生からお年寄りまで幅広い年代の客層でぎっしりの観客席を見て、演劇が社会に根付いてるんだなあと衝撃を受けました」<br /><br />大学卒業後も小劇場での演劇活動を続け、89年からは「ロマンチカ」という女性のみの劇団に移り、その中心的俳優として活躍。『ロマンチカ』を退団してからは映画、テレビにも出演するようになっていく。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼35歳でドイツの演劇界へ転身</span><br /><br />ドイツ行きの話が舞い込んだのは、そんな時だ。ドイツで舞台美術家・演出家として活躍していた渡辺和子さん演出の「羅生門」が、新国立劇場で上演されることになり、原さんも出演したが、その稽古中、渡辺さんが声をかけてきた。<br /><br />「今度、私、ベルリンで『NARAYAMA(楢山節考)』を演出するので、出演者を探しているの。日本人なら誰でもいいの。夏休みに出演してくれる人いないかしら」<br /><br />ドイツ演劇に関心があった原さんは「私でよかったら」と返事をした。99年夏、35歳のことだ。「NARAYAMA」に出演した日本人は原さんも含め2人だけで、他は全員ドイツ人。稽古場の雰囲気に驚かされた。<br /><br />「自己主張の強いドイツ人の俳優たちは、一人ひとりが演出家のようで、自分のビジョンを強く主張し、自分の役を中心に持ってこようとする、演出家の言う通りにならない。俳優が演出家に従う日本の稽古現場とは大きく異なっていました。この主張の強さは大変なもので、黙っている人は、どんどん端っこに追いやられてしまう。この稽古場の雰囲気に衝撃を受けました」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼前衛演出家、クリストフに拾われて</span><br /><br />ドイツに行った原さんには一つの野望があった。それは当時、ドイツでは鬼才の前衛映画監督・舞台演出家のクリストフ・シュリンゲンジ―フと会うことだった。日本で、彼の映画「United Trash」を見たとき、絶対にこの人と一緒に仕事をしたいと心に誓っていたのだ。<br /><br />「ベルリンにいる間、会う人ごとに『クリストフ・シュリンゲンジーフに会いたいんですけど、お知り合いじゃないですか』『彼に会うためにベルリンに来ました』って、ナラヤマの同僚スタッフや、カフェで偶然隣りに座ってる人にまで声をかけました。クリストフはテレビにもたくさん出演していた有名人だし、みんな笑うんですよ、「私だって会ってみたいよ」って。そのうちに、そんな私を見かねた出演者の一人が『僕の友達が彼のアシスタントをやっているから』と、クリストフのアシスタントを紹介してくれて。そのアシスタントさんが、その夜『NARAYAMA』を見に来てくれて、もしかしたら私のおかしさがクリストフに合うかも、と思ったらしく、企画中のドイツ国内ツアー公演のオーディションをセッティングしてくれたんです」<br /><br />その時、アフリカから帰国したばかりのクリストフは、口から泡をふいているトランス(恍惚)状態のアフリカ人の写真を原さんに見せて「僕はこういう人たちと仕事がしたい。普通の俳優は要らないから」と言った。「分かりました。準備してきます」と返事して翌日、原さんはクリフトフの前で、パフォーマンスをしてみせた。<br /><br />「演劇舎蟷螂にいたとき、毎日ハードな肉体訓練をしていたんです。寺山修司の作品で見るような、魑魅魍魎的な動きとか、『大滅亡』っていう陸に上がった魚のような動きとか。それが役に立ったというか。クリストフはとても喜んでくれて『是非一緒に仕事しよう』と言ってくれて。念願だったクリストフとの仕事が、こんなにも早く決まって、夢のようでした」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼観客を煙に巻く奇天烈なパフォーマンス</span><br /><br />そのクリストフのツアー公演は「ドイツ探し」というテーマで、出演者は当時のシュレーダー首相役俳優とその夫人役の俳優以外は障害者の人たちと原さんだけ。毎回、何も決め事なしの出たとこ勝負の即興劇。おまけに毎回、政治家などのゲストとの座談会も含まれるという奇抜な内容だった。<br /><br />「当時、私はドイツ語をほとんど忘れてしまっていて、何を言われてるかも、何が進行しているかもわからない。『クリストフの世界に入れて嬉しい』と思っていたのと同時に、即興なのでいつもドキドキして、舞台に出たからには何かして去らねばというプレッシャーで押しつぶされそうでした…結果、いろいろ奇天烈なことをしていました、クリストフに突然『サチコ来い!』と言われて、動顛してゲストの人の首を絞めたり。今でもその公演を見た演劇人に出会うと、私のことを覚えていたりするので、よっぽど変だったんだと思います。」<br /><br />その演劇ツアーで、スイスとドイツ各地の州立劇場を16か所回った。しかし「劇場」という場所では、日本人はおろか外国人にはほとんど出会わなかった。<br /><br />「ドイツでは街中に外国人がいるのに、劇場には舞台にも観客席にも外国人がほとんどいないのはどうしてなんだろうと思いました。劇場は社会を写し出す鏡のようなものだから、もっと劇場に外国人がいてもよいはずなのに、と。もし誰もいないなら、今すでに舞台に立ってる私にはチャンスがあるのではないかと。ドイツ語もほとんど出来ないのに、是非チャレンジしたいと思ってしまったんです」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼「意味がわからなくて読むところがいい」</span><br /><br />ツアーを終えた後、ツアーを共にしたクリストフのスタッフと結婚することになり、ベルリンに本格的に居を構えることになる。すぐに子供も授かった。<br /><br />「ベルリンに引っ越してからの数年は、自分にとって一番暗かった時代かも。赤ん坊を抱え、ドイツ語学校に行く以外は、家にいるしかなくて、このまま何年も過ごしていたら、いつまた芝居ができるんだろうかと不安で不安で。果たして日本を飛び出て正解だったんだろうかと悩んで。そんなとき、クリストフから次の作品にダンサーとして出ないかと声がかかったんです」<br /><br />「ダンサーとして呼ばれた稽古初日、その日に、娘役の女優が諸事情で降りてしまった。しょうがなく、とりあえずそこにいた私が娘役のセリフを読むことになって。<br /><br />いきなり台本渡されて、芝居の内容もわからず、でもドイツ語って意味は分からなくても、読むことは結構出来るから、とにかく読んでみた。そしたら『その、意味が分からなくて読んでいるのがいい』と言われて。相手のセリフがわからないので困って、発作起こして倒れる演技とかしたら、大受けで。それじゃあサチコが娘役やればいいねってことになったんです。そのときは知らなかったんですけど、他の出演者は、ドイツ演劇界を代表するような名優、女優達で、知ってたら緊張して駄目だったかもしれませんが、全く誰が誰だか知らなかったので、思いっきり暴れられました、今まで芝居できなかった日々のうっぷんを晴らすがごとく。それがうまく作用したみたいです。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235550ebe.jpg" alt="稽古風景" border="0" width="480" height="360" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235550ebe.jpg')" /><br />(写真③ 急遽娘役をやることになった「rosebud」という作品の稽古風景。左端はクリストフ、右端に原サチコさん、その横右から2番目:独・名優マーティン・ブトケ氏)<br /><br />その演劇界トップの人たちは天才で、ゴリ押しなんかしない、超越しちゃってる。台本をもらったらすぐにパーフェクトに演じられ、だから異質な私のこともすぐに受け入れてくれて、相乗効果で芝居を更に面白くしていける。刺激的な現場でしたね」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼「三文オペラ」のポリー役で脚光</span><br /><br />その後、クリストフのツアー公演を見たドラマツルグから声がかかり、02年12月ハノーファー州立劇場にて、ニコラス・シュテーマンという若手演出家演出の「三文オペラ」に出演することになる。「三文オペラ」は、世界的に知られたドイツの劇作家・詩人・演出家ブレヒトのヒット作で、ロンドン貧民街のボスの娘で、主役のマックザナイフと結婚する娘ポリーという重要な役を原さんは任される。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235752f87.jpg" alt="ポリー" border="0" width="400" height="600" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235752f87.jpg')" /><br />(写真④   三文オペラ ポリー役の原さん)<br /><br />「ニコラスのスタッフから『三文オペラ』を外国人だけでやる話があるので、ハノーファーに来て、オーディションで歌ってくれないかと電話があって…。急いでCDを買って、最初の一曲だけ行きの電車のなかで聞いて、ニコラスの前で歌ったんです。その最初の一曲は「モリタ―ト」と言って、男性の曲、しかも手練手管にたけたマックザナイフが低い声で歌う曲なのに、東洋人の姉ちゃんが高い声で、下手なドイツ語で歌いはじめたのが衝撃的だったみたいで、ひらめいたらしいんです。『そうだ、カラオケの三文オペラだ』って。当時ハノーファーに本当にタイ人経営のカラオケ屋があって、そこのウエイトレスみたいなポリーの絵が浮かんだらしく。彼は今はドイツの演劇界では有名な演出家ですが、当時は成功しはじめの若い演出家で、既存のドイツ演劇をなんとか打ち破ろうとしていたので、古典も何もお構いなしに暴れまくる私が使えると思ったみたいです」<br /><br />当時、ブレヒトの作品は遺族の監修が厳しく、原本通りに演出しないと上演許可されなかった。ところがニコラスの「三文オペラ」は、どこもかしこも原本とは違っている。そのためブレヒトの原本の台詞は観客席に電光掲示板で表示されるというトリックで、上演許可を取った。舞台の設定も、役柄も、どこまでも不透明なまま最後まで進んでいくという、前衛的な演出だ。<br /><br />この「三文オペラ」は、2002年12月より2009年6月までハノーファー州立劇場で上演された。当時ハノーファーで最も長くロングランした作品だった。<br />そして2011年3月、ケルン州立劇場にて、改訂版「三文オペラ」が幕を開いた。現在も絶賛上演中で、売り切れが続いている。<br /><br />※HPに「三文オペラ」の動画参照<br /><a href="http://www.schauspielkoeln.de/stueck_trailer.php?ID=322&amp;tID=2180" target="_blank" title="http://www.schauspielkoeln.de/stueck_trailer.php?ID=322&amp;tID=2180">http://www.schauspielkoeln.de/stueck_trailer.php?ID=322&tID=2180</a><br />ウィーン・ブルク劇場で東洋人初の専属俳優に<br /><br />仕事も軌道にのってきた原さんだが、04年夏にドイツ人の夫と別れ、3歳の息子を抱えて日本に帰国するかどうか、迷っていた。そんなときだ。クリストフとニコラスが「ウィーンに行きなさい。ブルク劇場の専属俳優になれるよう推薦しておくから」と救いの手を差し伸べてくれたのだ。<br /><br />ウィーンのブルク劇場と言えば、ドイツ演劇発祥の場で、専属俳優の数も100人以上とドイツ州立劇場の3倍も抱えている、規模も予算も他劇場とは桁違いの、ヨーロッパ随一の伝統と格式のある大劇場で、ヨーロッパでは知らない人はいない。<br /><br />「考えられないことですが、当時、私はブルク劇場が何かも知らなかったんですよ。とにかく息子と二人、食べていけるならどこでも行くって覚悟だったので。ウィーンに引っ越して、ブルク劇場を見て、初めて事の大きさを知ったという・・。ブルク劇場はその伝統から、古典的な心理劇と美しいドイツ語で有名なところ。普通なら外国人俳優など雇ってもらう余地はありません。でも当時のブルクの芸術監督のバハラ―氏が前衛演劇を重視していて、クリストフやニコラスとも契約していたので、その2人が推薦するなら、一年だけ試しに雇ってあげると。ブロークンなドイツ語をしゃべる東洋人俳優が、初めてブルクの専属俳優になったんです」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼自爆テロの写真で一躍有名に</span><br /><br />04年10月にベルリンからウィーンに転居。ブルク専属俳優としての原さんの舞台姿の写真が、ドイツの新聞に大きく掲載されたのは05年3月に開幕したニコラス演出の「BABEL」に出演したときだ。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235917c5a.jpg" alt="自爆テロ" border="0" width="480" height="330" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111001235917c5a.jpg')" /><br />写真⑤ 「BABEL」の自爆テロシーンは各種新聞に掲載され、世界各国の演劇祭でポスターになった。自爆テロというのは、日本赤軍がテルアビブ空港で行ったことから有名になったそうだ。いきなり服を脱いだら自爆テロだった、というのも衝撃的。<br /><br />「BABEL」は、ノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネックがイラク戦争について書いたもので、アグレイブ刑務所でのアメリカ兵の捕虜虐待をはじめ、自爆テロ、人肉を食べるカニバリズムなどがテーマ。それをギリシャ神話からの引用で語っていく前衛的な作品だった。自爆テロの場面では、原さんは頭に白ハチマキを締め、爆弾を腰に巻いた姿で登場、爆弾スイッチを手に叫ぶ。また人肉を食べる場面では、フランスで女性の人肉を食べた日本人の男が書いた手記「佐川君の手紙」を読み上げる。<br /><br />「その場面は特別に美しい音楽、照明で、私も柔らかく静かに語りかけるので、お客さんは何がくるかと思ったら、人肉を食べる話になるので、ショックを受けて、パタパタと帰る人が出てくるんです。そんな役はドイツ人の俳優さんは自分のイメージが悪くなるので引き受けません。でも当時私は自分の評判はどうでもいいと思ってた。何をやっても親兄弟も日本の知り合いも見に来ないし、ブルクから捨てられたら行くところもない、って捨て身だった。結果的に過激なことをやる羽目に・・。私はノ―と言えない日本人の典型で、後先考えず引き受けてしまうことがよくあります。でも自我の塊のようなドイツ人俳優の中で、一人捨て身でなんでもやってくれる役者がいるのって、結構重宝がられるっていうのもあると思います(笑)」<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110020000587bb.jpg" alt="佐川君の手紙" border="0" width="400" height="600" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201110020000587bb.jpg')" /><br />写真⑥ 「佐川君の手紙」 柔らかく静かに語りかける場面<br /><br />結果は大反響を呼び、「BABEL」の公演は、5年も続き、南米コロンビアやヨーロッパ各地を巡演した。その都度、専属契約は更新され、原さんの名声も高まり、ブルクでは5年間に15作品に出演した。<br /><br />「ウィーンにいる間は、とにかくずっと稽古で、初日を迎えたら、すぐに次の作品の稽古、の繰り返しの日々でした。ニコラスとクリストフ以外に私を使う演出家はいないだろうというバハラー氏の当初の予想を裏切って、次から次へとオファーがあり、ブルクにいた5年間、最も多忙な専属俳優の一人でした。たくさんの楽しかった作品がありますが、特に、ルネ・ポレシュとの3作の仕事は私のそれからの生き方にまで影響を与えるほど、素晴らしいものでした。ルネは、ドイツでは珍しく作・演出両方一人でやるんですが、稽古場で、私達俳優と、哲学や社会学の本を読みながら、話し合いながら、台本を作っていくんです。その作品は、社会学的・哲学的論理を利用しながら、役柄じゃなく、自分自身の問題に立ち向かうことの出来る稀有な作品で、私も外国人として生きることをテーマにした、素晴らしい一人台詞を毎作ごとに書いてもらい、それはそれは幸せな経験でした。そのような機会がなければ、私の問題など、決して舞台作品には反映されないからです。私だけでなく、彼と仕事したたくさんの俳優は、その後の生き方、考え方に影響を受けています。もっと彼の仕事ぶりが、日本でも紹介されるといいなと思って、この夏、彼の作品を自分で翻訳して、リーディングを東京ドイツ文化センターでやることになったのです。」<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000150228.jpg" alt="掲載誌" border="0" width="480" height="269" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000150228.jpg')" /><br />写真⑦ 原さんの活躍を伝える独掲載誌<br /><br /><span style="font-size:large;">▼ハノーファーに移籍して転機を迎える</span><br /><br />09年8月。再び原さんに転機が訪れる。ブルク劇場の芸術監督バハラー氏の任期が切れ、後任者は路線が違ったため、ニコラスとその仲間と共に、原さんの契約も更新されなかった。いくつかのドイツの州立劇場から誘いを受けたが、ハノーファー州立劇場の専属になることに決めた。それは、ハノーファーの芸術監督に就任する演出家ヴァルブルク氏が、偶然にも息子が通園するウィーンの幼稚園で知り合った父兄の1人であり、公私共によく知っていた人だったからだ。<br /><br />「ハノーファー州立劇場の路線は『新しい才能の発掘』で、若い演出家を見出していこうと。私もドイツの若い演出家の仕事に興味がありました。でも若い演出家はわりとおとなしいというか、やはりクリストフやニコラスとの仕事より刺激が少なかった。そこで自分自身で企画を考え、出してみようと思いました」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼ドイツでヒロシマの芝居がしたい</span><br /><br />ハノーファーは83年から広島市と姉妹都市関係にあった。<br />10年6月、原さんが姉妹都市を実現したハノーファー前市長に会って、市長から「第2次大戦で破壊され、『美しくない街』と不名誉な呼び方をされているハノーファーが、原爆で破壊されたのに見事に復興している広島市と結び合って共に歩んでいきたいという思いから、10年間にも及ぶ交渉の末、姉妹都市が実現しました」という話を聞かされた。<br /><br />「そうだ、ここで広島のお芝居をやろう。奇天烈なことばかりやってきた私だけれど、ハノーファー州立劇場で働く日本人はこれまでもいなかったし、これからも現れないかもしれない、ヒロシマのお芝居をここでやることが日本人としての私の義務だ」と、決心した。原さんは自らのブログで、当時のことをこう記している。<br /><br />「なんだかハノーファーに来たことが、神に導かれたみたいな不思議な気持ちになったのです。日本を離れて10年間ずっと、日本人である私がドイツ語圏で演劇をやっている間に、日本の作品が紹介できないか、と考えていました。ただ日本のということだけでなく、日独を結ぶもの、更に世界を結ぶもの、それは雲をつかむような話で、自分で考えがまとまらなかったのですが…」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼井上ひさしの朗読劇をドイツで上演</span><br /><br />原さんは09年8月に一時帰国したとき、広島のことを朗読劇にしたという話を知人から聞いたことを思い出し、本とビデオを送ってもらった。<br /><br />「それは井上ひさしさんが新国立劇場演劇研修所のために書きおろした朗読劇『少年口伝隊一九四五』でした。井上ひさしさんらしい、完成度の高い戯曲で、ハノーファー初のヒロシマのお芝居として最適だと確信しました。劇場の上層部と交渉したら、難しいけれどやる意義はある、ということで上演が決まりました」<br /><br />上演は決まったものの、東京生まれの原さんは原爆の被災地である広島、長崎の状況について詳しくは知らない。「何も知らない私がやっていいんだろうか」と、10年の夏休みには広島に出掛け、原爆ドーム、原爆資料館、原爆放射線医科学研究所など訪れたほか、広島ハノーファー協会会長の林寿彦さん(当時79)にも会って、原爆体験を語り継ぐ意味、ハノーファーと姉妹関係を結んだ時の話などを聞き、ビデオに収録した。<br /><br /><a href="http://mytown.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201007210206.html" target="_blank" title="http://mytown.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201007210206.html">http://mytown.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201007210206.html</a><br />(2010年7月22日asahi.com-広島の関連記事HP)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼ハノーファーで「ヒロシマ・サロン」</span><br /><br />「最初は、私が広島でいろいろな人に行ったインタビューを、『口伝隊』上演の前後にビデオ上映する計画でしたが、結果的にそれは不可能になりました。『ヒロシマを語り継いでください』と訴えていた林さんが、私たちが取材した後10月末に亡くなられたこともあって、貴重な最後のインタビューを、ハノーファーの人々にどうしても見てもらわなければ、と思いました。そこで、『ヒロシマ・サロン』と名付けて、30人限定の観客と、広島名物のお好み焼きをつつきながら、広島でのインタビューのビデオを観ていただき、私の広島での経験を聞いてもらうという集まりを開きました。広島のお好み焼きは難しいので、鉄板を買って家で特訓して、材料もハノーファーで手に入るもので工夫しました。小さな会なのに、好評でいろんな新聞でも取り上げられ、何度も開催することになりました。姉妹都市にかかわった元市長や市役所の人たちもいらしてくださり、喜んでくださいました」<br /><br />「70年代から80年代、広島―ハノーファー間の青少年交流はとてもさかんに行われていたそうです。でもこの10年ほどはあまり話題になっていなかったようで、ハノーファー市民の中でも、広島が姉妹都市であることを知っている人が少なくなっていました。私が『広島に取材に行ってくる』という話をすると『放射能は大丈夫か』と心配する人もいるほどでした。『ヒロシマ・サロン』をやってみて、微力ながら、広島への誤解が解けたり、興味を持つ人が増えたりするのを実感しました。この夏休みに再度広島を訪れて撮ってきたビデオと共に、11月にはリニューアルした『ヒロシマ・サロン』を開く予定です。そこには当然、福島の話題も入ってくるでしょう。<br /><br />もう公演は終わってしまいましたが、「少年口伝隊一九四五」も好評でした。高校生のグループもたくさん観に来ましたが、中には、『こうした現実に起きた悲惨な出来事を舞台化してもいいのですか。実際広島の人はどう思うでしょう。』と、厳しい批判をする高校生もいました。しかし私は『広島の原爆体験を、世界中の人々が忘れないように、語り継いでいく手段として、演劇も有効だと思う』と答えました。演出どうこうというより、ハノーファーでヒロシマを伝えられたことだけでも意義があったと思っています」<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000350be2.jpg" alt="ハノーファー1" border="0" width="480" height="265" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000350be2.jpg')" /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000350916.jpg" alt="ハノーファー2" border="0" width="480" height="320" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000350916.jpg')" /><br />写真⑧⑨:独人の若手演出家による「少年口伝隊一九四五」。子供3名を使い計6名の出演者で構成。ハノーファー州立劇場の舞台に「原爆のテーマが取り上げられた」という事実が大きな成果であった。  <br /><br /><span style="font-size:large;">▼福島原発事故で心身ともに混乱状態に</span><br /><br /> 東日本大震災と福島原発事故が起きた3月は、元々原さんにとって多忙な月だった。ハノーファー州立劇場での新作「銀の湖」の初日が3月19日、ケルンの州立劇場の改訂版「三文オペラ」の初日が3月26日、2つの初日を1週間違いで迎えるという、異常なスケジュールで、2つの作品の稽古のため、2つの都市を行き来するという日々だった。「本来なら、ハノーファーの専属である私は、ケルンの『三文オペラ』には出演できないはずでした。初日も一週間しか違わないし。でも、『ポリー役はサチコ以外に考えられない』というニコラスの言葉を聞いて、やっぱり7年間演じた自分のポリーがどうしてもやりたくって、ハノーファーの芸術監督ヴァルブルク氏に頼み込んだんです。どんなスケジュールになってもベストを尽くしますからって言って。」<br /><br />「結果、両方の作品に出演出来ることになって。自分の我儘で、両方のプロダクションにスケジュール的にも迷惑がかかるわけだから、絶対良いものを見せなければ、っていうプレッシャーの日々でした。そんなとき、震災が起きて。周りの同僚は『すぐに家族をドイツに呼びなさい』とすごい剣幕で言うし、東京の母に電話してそう言うと、母もパニックを起こしてしまって。弟もそんなに心配するなと言うし。稽古は大詰め状態だし。何をどう考えていいのか訳が分からなくなってきちゃって…」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼本番中の舞台で倒れ、救急車で病院へ</span><br /><br />11年4月8日。ハノーファーの舞台で、原さんは倒れてしまった。<br />「生まれて初めて舞台の上で本番中に倒れました。すごいめまいがして床がぐらぐらして立っていられなくなって倒れてしまったんです。でも倒れたまま最後まで自分の台詞は言いましたので、お客さんは何も気が付かず、そういう場面だと思っていたようです。出番が終わったら救急車が待ってて病院に運ばれたんですけど、検査してもどこも悪くなく、心労だという診断で。同僚に、『倒れて当然だよ。どうしてサチコは震災後も平気な顔してるのか皆で不思議に思ってたんだよ』とそのとき言われました。皆に心配かけたくなくて、仕事場では強気で笑ってた、そんな無理が祟ってしまった。その時、自分で思っているほど自分は強くないんだなと思いました。それに、あんなめまいを体験すると、自分があとどれくらい元気で芝居が出来るだろう、何でもやれるときにやっておかないと後悔するなあと思いました」<br /><br />そんなときケルン州立劇場では、ノーベル賞作家イェリネックが、今回の福島の原発災害をテーマに書いた新作を9月に上演する話が進められていた。演出家から「もしスケジュールが空いてたら出てもらえないか」という話が持ち込まれた。<br /><br />「スケジュールは空いてませんでした。ハノーファーで10月に初日を迎える大作「ニーベルンゲン」でブリュンヒルトという大役をやることが決まってましたから。でも、震災が起きてからずっと、外国に住む私に何が出来るだろうって自問していた。イェリニックが福島のことを書いたという話を聞いたときに、あっこれだ、これを通してドイツに日本のことを身近に感じてもらいたい、これは絶対やらないと後悔する、という気持ちが強くなって。またまたハノーファーの芸術監督に、その気持ちを正直に話しに行きました。『これをやらなかったら、ドイツに生きてる私の意味がなくなる』と。そしてまたまた特別許可が出て、夏休み明けから、2つの稽古で2つの都市を行き来する日々が始まります」<br /><br /><span style="font-size:large;">▼肺ガンで亡くなったクリストフを偲ぶ</span><br /><br />最後は、最近の作品の映像や日本で7月に東京ドイツ文化センターで公演した原さんの朗読劇(ルネ・ポレシュ作)の紹介があった。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000632ee1.jpg" alt="ルネ" border="0" width="480" height="359" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000632ee1.jpg')" /><br />(写真⑩ ドイツで上演されたポレシュ作品。 風に吹き飛ばれそうな原さん。背景はジェットコースーターが猛スピードで降りていく動画。) <br /><br />そして原さんにとっては恩人の前衛演出家、クリストフ・シュリンゲンジ―フが10年8月21日に肺ガンのため49歳の若さで亡くなったことに言及。彼は3年前にガンの告知を受けてからも精力的に活動を続け、アフリカのブルキナ・ファソにおけるオペラハウス建設を計画した。最初荒唐無稽に思われたその計画も、彼の精力的な働きかけで、多くの人を動かし、現在すでに建設が進んでいる。<br />10年8月30日に彼の故郷、オーバーハウンゼンで葬儀が行われた。そのときのことを原さんはブログでこう書いている。<br /><br />「彼が子ども時代にずっと通っていたカトリック教会、ここで葬儀を、というのが彼の願いだったそうです。その内部に入ったとき、そのステンドグラスも、照明も、蝋燭もすべて、彼の去年の演劇作品とそっくりでした。そこにある、彼のお棺も、大きい写真も、たくさんの花も、ああこれがクリストフの最後の作品なのだなあ…と気付かせてくれました。<br /><br />彼は、人生丸ごとが作品で、作品はだから、いつも真実の人生でないと、許さない人でした。役者の技巧で、そこに『架空の世界』ができると、とたんにぶち壊しにかかる人でした。だから彼は精神障害者や素人の人を好んで使いました。その人たちは、舞台上でも嘘をつく技巧がないからです。彼は、障害者のお気に入りのキャストを何人も抱え、大きな劇場での作品作りにも、その人たちを出演させるよう劇場に要請しました。そんなことは前代未聞の劇場側と、たくさんのトラブルがあったのはもちろんです。<br /><br />そんな障害者の1人、ホーストが、葬儀の間もいろいろやらかしていたのですが、それも、クリストフの作品らしくて、皆の泣き笑いを誘っていました。<br /><br />クリストフのエネルギー、あの、周りの人を、ファンでもアンチでも、皆取り込んで、皆一緒に作品を作ってしまう、あのエネルギーは、今どこに行ったんだろうと思います。死んでしまったら、そのエネルギーも、なくなっちゃうのかな…そうは思いません。きっと、そのエネルギーは、彼と関わった全ての人の中に分散されて、生き続けている。私の中にも、ずっと生き続けている。ずっと忘れずにいようと思います。彼の仕事ぶり、彼の言葉…どんな人だったか、語り伝えていきたいです」<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000802a81.jpg" alt="雑誌表紙" border="0" width="200" height="269" /><br />写真⑪ クリストフの死を悼むドイツの演劇専門誌「Theater der Zeit 06/2011」。「少年口伝隊一九四五」も同誌に掲載される予定。<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000801c8a.jpg" alt="原さん" border="0" width="418" height="527" /><br />写真⑫ 原さんとクリストフの写真<br /><br /><span style="font-size:large;">▼感想</span><br /><br />昨年11月、こまつ座の公演で井上ひさしの「少年口伝隊一九四五」を偶然見たが、同プログラムにドイツのハノーファーでも上演されたことが書いてあった。まさか、原サチコさんが関わっているとは思わなかった。ソフィアンが、原爆体験をドイツで伝えている姿に感銘を受け、「記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ」という井上ひさしのメッセージも改めて思い出した。今後の原さんの活躍を応援したい。今回、この講演会を企画され、当日の総合司会も務められた小高慶子さん(81年独文卒・ドイツ文化センター文化部企画担当)に心から感謝します。(山田洋子記、77外独)<br /><br /><img src="http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000941fd4.jpg" alt="パーティの原さん" border="0" width="480" height="360" onclick="popupImage('http://blog-imgs-34.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20111002000941fd4.jpg')" /><br />写真⑬ パーティーで談笑する原さん<br /><hr size=&quot;1&quot; />「原サチコ氏略歴」<br />64年11月 神奈川県生まれ。88年外独卒。84年より演劇舎蟷螂にて演劇を始める。後に劇団ロマンチカにて活動。99年渡辺和子演出「NARAYAMA」ベルリン公演でドイツにて初舞台。そのとき、鬼才クリストフ・シュリンゲンジーフと知合い、彼の作品に出演。01年ベルリンへ移住。その後、ニコラス・シュテーマン演出の「三文オペラ」ポリー役をきっかけに様々な演出家の作品に出演。04年より、東洋人として初めてウィーン・ブルク劇場の専属となり、引き続き、シュリンゲンジ―フ、シュテーマンを始め、ルネ・ポレシュ、セバスチャン・ハルトマンなどの作品に出演。09年にウィーンからハノーファー州立劇場に移り、専属として活躍中。02年にハノーファー州立劇場で初演したシュテーマン演出の「三文オペラ」は、新バージョンとしてケルン州立劇場でレパートリーとなっている。原サチコは引き続きポリーを演じている。 <br />11年シーズンは、ケルン州立劇場「Demokratie in Abendstunden/Kein Licht」(9月29日初日)、ハノーファー州立劇場「ニーベルンゲン」(10月23日初日)で幕を開ける。<br /><hr size=&quot;1&quot; /><br />(参考リンク)<br />■ケルンー三文オペラ画像掲載HP:<a href="http://www.kultura-extra.de/theater/feull/rezension_dreigroschenoper_schauspielkoeln.php" target="_blank" title="http://www.kultura-extra.de/theater/feull/rezension_dreigroschenoper_schauspielkoeln.php">http://www.kultura-extra.de/theater/feull/rezension_dreigroschenoper_schauspielkoeln.php</a><br />■出演作品一覧:<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000/archive/2011/07/07" target="_blank" title="http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000/archive/2011/07/07">http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000/archive/2011/07/07</a> <br />■原さんのブログ:<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000" target="_blank" title="http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000">http://blogs.yahoo.co.jp/sahanoha2000</a> 
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