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上智大学・石澤良昭学長講演報告 ~ カンボジアで人材養成20年~

「国境を越えた強固な信頼関係の構築 ~ カンボジアで人材養成20年 ~上智大学・石澤良昭学長(1961.外・仏卒)講演報告2011年1月13日:四ツ谷主婦会館プラザエフにて 石澤良昭・上智大学長は、1月13日(木)の東京・四谷倫理法人会主催の講演会(イブニングセミナー)で「私がカンボジアのアンコール・ワットで遺跡修復活動を続けてきたのは、ポルポト政権時代に殺されたカンボジア人の遺跡調査の仲間30数人と誓い合... <table border="1" width="450" cellspacing="5" cellpadding="5"><tr><td>「国境を越えた強固な信頼関係の構築<br /> ~ カンボジアで人材養成20年 ~<br />上智大学・石澤良昭学長(1961.外・仏卒)講演報告<br />2011年1月13日:四ツ谷主婦会館プラザエフにて</td></tr></table><br /><br /><a href="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa1.jpg"><img src="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa1.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a><br /><br /> 石澤良昭・上智大学長は、1月13日(木)の東京・四谷倫理法人会主催の講演会(イブニングセミナー)で「私がカンボジアのアンコール・ワットで遺跡修復活動を続けてきたのは、ポルポト政権時代に殺されたカンボジア人の遺跡調査の仲間30数人と誓い合った約束を果たすためだった」「貧しいのに信仰を糧に生き生きして生活しているカンボジア人に日本人は学ぶことがたくさんあります」など、修復作業を通じて築いてきた日本とカンボジアの国際交流についての具体的体験を披露した。<br /><br /> 石澤学長は「上智大学はカトリック大学で、世のため人のために惜しみなき奉仕の精神を実践することです」と、国際化とは何かについての体験を語り始めた。<br /><br /><font size="4"><strong>■国際化とは何か</strong></font><br /><br /> 「国際化、グローバル化とは何か。どこかにグローバル化した社会があって、そこに出かけていくことがグローバルになるのではありません。私たちの大学では日常的に食堂では留学生同士がご飯を食べながら日本語、英語、スペイン語などで『これおいしい』などとしゃべり合っている光景があります。これが地球社会、地球市民なんだと思います」<br /><br /> こうした当たり前のことを石澤学長はカンボジアでアンコール・ワットの遺跡の修復活動を通じて始めた。1960年代から修復活動にかかわっていたが、カンボジアでは5つの派に分かれて内戦が始まり、ポルポト時代には150万人が虐殺された。その中には修復活動で知り合った30数人のカンボジア人の仲間もいた。<br /><br /> 「私は彼らと誓いをたてていました。一緒に遺跡を直そうなと。フランス人は『彼ら(カンボジア人)はダメだから、俺たちがアンコール・ワットを直しているんだ』と言うんです。しかし現場で一緒に仕事をしていると、彼らは優秀なんですね。感性も豊かだし、その尊敬していた仲間が30数人も死んでしまったんです」<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e585a8e699afdaytime.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e585a8e699afdaytime.jpg" alt="" title="全景DAYTIME" width="400" height="267" class="alignnone size-full wp-image-424" /></a><br><br />(パノラマのような景色:フランスによってリプロデュースされた部分もある)<br /><br /><font size="4"><strong>■生き残った仲間から手紙</strong></font><br /><br /> 日本に帰国して15年たった1980年のある日。虐殺を免れて奇跡的に生き残った3人の仲間から手紙が届いた。カンボジアに取材に行った日本人特派員に託したのだった。<br /><br /> 「みんな、いなくなった。助けてほしい」<br />まだ内戦は続いていた。当時、石澤学長は鹿児島大学で教えていた。カンボジア行きに反対する大学当局には連絡せずにカンボジアに入った。タイのバンコクから医薬品を運ぶ国際赤十字の飛行機に便乗させてもらったのだ。<br /><br /> 「西側の遺跡専門家として15年ぶりにカンボジアに入ったんです。ジャングル、ジャングル。遺跡周辺は水がたまり、遺跡の砂岩には黒カビがついていました。高松塚古墳と同じ黒カビで、砂岩を溶かしてしまう。そういう<br />危険な状態を調査して帰ってきました」<br /><br /> その記事がバンコク特派員により日本の新聞に掲載された。鹿児島大学からは「2度と行ってはならない」と申し渡されたため、上智大学に移り、カンボジア行きの機会を待った。<br /><br /><font size="4"><strong>■息づく輪廻転生の信仰</strong></font><br /><br /> カンボジアは内戦で疲弊したが、地震、台風、洪水といった自然災害のない豊かな国だ。米も三毛作が可能だが、運搬するトラック、貯蔵する倉庫がないため年一回の収穫で済ませている。高床式の住居は風の通り道に建てると涼しく、過ごしやすい。<br /><br /> 「衣食足りて礼節を知るということわざがありますが、衣食住が十分だと人間は来世のことを考えることになるんです」<br /><br /> カンボジアでは極楽浄土とは涼しい風が吹いている、おいしい料理が食べられる、天女がかしずいてくれる場だと言われている。小さな鳥にもミミズにも来世はある。この世で良い行いをすると来世では位の高い人になるという輪廻転生の信仰が息づいている。<br /><br /> 「村々にお寺があり、一生独身で身を清め尊敬されているお坊さんがお経をあげ、極楽浄土へ向かう一つの見本を示してくれている。毎朝、托鉢に来るお坊さんが街角に立つと、お化粧して身ぎれいにした婦人たちが最敬礼してご飯を差し上げる。生れて生きて死を迎えるまでの人間の生きざまをお寺を中心に見て育つ社会では、キリスト教も入らなかったのは当然かと思います」<br /><br /><a href="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa2.jpg"><img src="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa2.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a><br /><br /><font size="4"><strong>■人材養成に10年</strong></font><br /><br /> アンコールワットが建設された当時は紙がなかった。ヤシの葉にお経や伝達事項が刻まれたが乾燥し消えてしまう。<br /><br /> 「そのため王様の命令は石の壁に刻み込まれた。この1200ほどある碑刻文の解読が1930年代から進み、その時代のカンボジアの人々が何を考えていたかといった生きる証が分かってきた。その点ではアンコール研究という学問は若い学問で、まだまだわからない、不明朗なところがある。これからやらねばならないことがたくさんあるんです」<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e383ace383aae383bce38395efbc91.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e383ace383aae383bce38395efbc91.jpg" alt="" title="レリーフ1" width="400" height="252" class="alignnone size-full wp-image-425" /></a><br />(レリーフ:閻魔大王にささげられる王女(中央)―王女であろうとも、最後は極楽浄土に行くか地獄に行くかの判断をされる。左に並ぶ女官逹の王女はどちらに行くのだろうという不安そうな表情が表現されている)<br /><br /> カンボジアは東南アジアのギリシャと言われている。文化的には高度だが、戦争では連戦連敗を続け、領土はタイ、ベトナムに没収され、縮小されてしまった。<br /><br /> 「そんな国で遺跡の修復をするには人材養成が必要です。遺跡修復の場合、どこの国も自分たちの国から専門家、技術者を連れていき、現地の作業員を使って直していく。それも一つの方法ですが、私たちは現地の人にやってもらう。その代わり方法論や技術的などを教えます。そうすると彼らは力を発揮してきます。彼らは建物を建てたり、土木工事も得意です。アンコール・ワットの西参道の石畳の修復には16年かかりました。実は、そのうちの10年は石工のトレーニングに費やしました」<br /><br /><font size="4"><strong>■参道の石畳に8000個の石</strong></font><br /><br /> アンコール・ワットの西参道の石畳は約100メートル。8000個の石を敷き詰めるのだが、石を水平に、しかも真っすぐに切るのは大変な訓練と技術を必要とした。<br /><br /> 「西参道に日よけのブルーシートを張って作業を続けたのですが、国賓の人たちが見学に来ると『目障りだから外せ』と言ってくる。しかし私たちは外しませんでした。あの暑いところでカンボジアの人たちが黙々と作業を続けたのは彼らの信仰心を高め、そして修復に携わったという誇り、自慢にもなった。父親が仕事をしているのを母子が見に来て名前を呼んだり、手を振ってこたえるシーンは度々見られました」<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e8a5bfe58f82e98193efbc921.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e8a5bfe58f82e98193efbc921.jpg" alt="" title="西参道2" width="400" height="283" class="alignnone size-full wp-image-455" /></a><br />(西参道修復の様子)<br /><br /> 西参道の修復と並行して91年からアンコール時代の歴史解明にも取り組んできた。それはアンコール・ワット遺跡群の一つであるバンテアイ・クデイ遺跡での保存、修復、発掘活動である。アンコール・ワットから東北6キロのところにある12世紀末ころの遺跡で、毎年3月,8月,12月に現地の大学考古学部の学生たちが日本の考古学の先生から基礎的なことを学びながら発掘する実習を繰り返してきた。<br /><br /><font size="4"><strong>■歴史を塗り替える大発見</strong></font><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2001e5b9b4e799bae68e98efbc91.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2001e5b9b4e799bae68e98efbc91.jpg" alt="" title="2001年発掘1" width="400" height="274" class="alignnone size-full wp-image-428" /></a><br />(2001年 カンボジア人の手により発掘された現場)<br /><br /> 「10年目に当たる2001年3月と8月の研修の最中に、約1000年前に埋められた274体の仏像が地中から出てきたんです。私たちはそこに廃仏が埋められているとは全く知りませんでした。これはちょっとやそっとの話ではなく、150年アンコールを研究してきた、その歴史を塗り替える大発見になった。何よりも良かったのはカンボジアの人たちが喜んでくれたんです。虐殺があり、貧困で、いつもうつむき加減の生活をしていたカンボジアの人たちが『俺たちの文化は世界に発信できるすごいものなんだ』『それを自国の学生たちが掘ったんだ』と、本当に元気の源になったんです。文化はこころの充実を満たしてくれるんですね」<br /><br /> 2010年8月には7人の研修生がさらに6体の廃仏を掘り起こした。前日の土砂降りの雨で土が流されたあとに、仏像の頭頂部が地表に出ているのを遊んでいた子どもたちが見つけ大騒ぎになった。1時間もたたないうちに200人位の村人が集まってきた。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2010e5b9b4e799bae68e98efbc91s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2010e5b9b4e799bae68e98efbc91s.jpg" alt="" title="2010年発掘1s" width="400" height="298" class="alignnone size-full wp-image-429" /></a><br>(後ろで様子をうかがう子供逹 →仏像の頭頂部)<br /><br /> 「ちょうどその日は満月で、しかも仏日と言って、めでたい仏さんの日だった。それでみんな手に手にローソク、線香、そして供え物のバナナを持ってお参りに来ました」<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2010e5b9b4e799bae68e98efbc92.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/2010e5b9b4e799bae68e98efbc92.jpg" alt="" title="2010年発掘2" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-430" /></a><br /><br /><font size="4"><strong>■大学総がかりで英語力アップ</strong></font><br /><br /> 講演会などで「上智大学はカトリックなのに、なんで仏像を掘るのだ」という質問がよく出るという。<br /><br /> 「その答えは困っている人たちを助ける、そういう方たちに元気を出してもらうというのが私たちのミッションだと思っています」<br /><br /> 上智大学は18年間、カンボジアの優秀な学生を日本に留学させ、大学院を修了させるなどの世話を続けている。英語ができない学生にも修士論文、博士論文を書かせるため上智大の英国人や米国人の神父たちが最初のABCから教えている。<br /><br /> 「大学総がかりで彼らの英語力アップに取り組むのです。そして一番いいのは修士論文を書くために必要な単位をとったら、いったんカンボジアに帰すんです。そしてこれとこれと調べてこいと言うと、まだ誰も調べていないテーマですから、オリジナリティーが高いわけです」<br /><br /><font size="4"><strong>■蚊攻めにまいった現地指導</strong></font><br /><br /> 現地指導も欠かさない。あるとき、メコン川を渡ったところの遺跡近くにある貝塚を調査している学生を指導するため訪れたときのことだ。<br /><br /> 「貝塚の穴を見て、具体的に指導したまではよかったんですが、夜になったら蚊が出てきて私は刺された。現地の学生は慣れているため何でもないんですが、私はかゆくてかゆくてたまらず、散々な目にあいました。誰も行けない所で、問題をとらえて論文を書くわけですから、世界では唯一の論文になる」<br /><br /> そうした形でこれまでに博士号を取った学生は7人。修士号を取った学生は13人にのぼる。全員カンボジアに戻り、最初に博士号を取った人はプノンペン大学の副学長に就任、他にも文化芸術省の次官など、要職について活躍しているという。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e382bbe383b3e382bfe383bce78fbee59cb0e69cace983a8e585a8e699af.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e382bbe383b3e382bfe383bce78fbee59cb0e69cace983a8e585a8e699af.jpg" alt="" title="センター現地本部全景" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-431" /></a><br />(上智大学アンコール研修所)<br /><br /><font size="4"><strong>■持続可能な支援の手本に</strong></font><br /><br /> 石澤学長は講演で、国際交流の哲学である「カンボジア人による、カンボジアのための、カンボジアの遺跡保存修復」ということを自ら実践し、グローバルという場所はなく、信頼関係に基づいた日常的な当たり前の地球市民であることがグローバル化であると強調した。国際協力の一番の問題である「持続可能な支援―Sustainability」を文字通り実践し、アンコール・ワット修復活動への取り組みが国際開発の手本になり得るものであり、上智大学の国際性、ユニークさを見事に浮き彫りにした講演だった。<br /><br /> アンコール・ワットが11世紀には世界で京都を抜いて、4番目の人口を擁していたこととか、マルコ・ポーロの「東方見聞録」でいうジパングが通説の日本でなく、アンコール・ワットを指しているなど、会場からの質問に答えていた。会の参加者は約150名と、盛況な講演会だった。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e585a8e699afe5a495e69aaee3828c.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2011/01/e585a8e699afe5a495e69aaee3828c.jpg" alt="" title="全景夕暮れ" width="400" height="297" class="alignnone size-full wp-image-432" /></a><br /><br /><a href="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa3.jpg"><img src="http://twocheers.files.wordpress.com/2011/01/ishizawa3.jpg" alt="" width="400" height="300" /></a><br />(写真:石澤学長と筆者)<br /><br /> 石澤学長は第2回(1992年)コムソフィア賞の受賞者で、主な著書は、「アンコール・王たちの物語」(NHK出版)、「アンコールからのメッセージ」(山川出版)、「アンコール・ワットの時代」(連合出版)、「東南アジア多文明の発見」(講談社)など多数。<br /><br />参考URL:<a href="http://www.info.sophia.ac.jp/angkor/jp/" target="_blank">Sophia University Angkor International Mission</a> <br /><br />(報告:松村裕幸―1970年外・ポ、山田洋子―1977年外・独)<br /><br />
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「わたしの意見・主張」 ~発想の転換が上智の命運決める~

■入試改革への取り組みへ 国際学力テスト(PISA)の成績で日本の教育関係者は一喜一憂しているが、大学入試を含め大学教育の仕組みを根底から改めない限り、日本の若者たちのバイタリティーは下がるばかりだ。人材育成のために大学改革、入試改革への取り組みを上智大から始めるときが到来したのではないだろうか。 日本経団連は、学生に対する会社説明会などを3年生の12月1日以降とする方針を固めたという。というのも... <span style="font-size:large;">■入試改革への取り組みへ</span><br /><br /> 国際学力テスト(PISA)の成績で日本の教育関係者は一喜一憂しているが、大学入試を含め大学教育の仕組みを根底から改めない限り、日本の若者たちのバイタリティーは下がるばかりだ。人材育成のために大学改革、入試改革への取り組みを上智大から始めるときが到来したのではないだろうか。<br /><br /> 日本経団連は、学生に対する会社説明会などを3年生の12月1日以降とする方針を固めたという。というのも学生の就職活動は3年生の夏ころから始まっていて、学業の妨げになっているからだ。入試地獄から解放されて大学に入り、部活や旅行などに熱を入れて、いざ勉強しようとすると就活が待っている。しかも不況のあおりで昨年春に卒業した大学生の就職率は60・8%、就職も進学もしていない人は8万7千人にも達している状況だ。研究テーマを見つけて勉強に励む大学生は数えるほどしかいない。<br /><br /><span style="font-size:large;">■問題は企業側・・・</span><br /><br /> さらに問題なのは就職したものの中途退職する若者たちが増え、企業も中途採用に力を入れないと存続できない時代である。<br /><br /> メディアも例外ではない。新聞社や通信社も新規採用した人間が次々に辞めていくので中途採用で補充せざるを得ない。しかも中途採用した人間の方がやる気十分で、仕事も器用にこなす。極端な言い方をすると、中途採用に依存している状況なのだ。<br /><br /><span style="font-size:large;">■個々の適材適所を見極める力・・・</span><br /><br /> どうしてこのような問題が生じてきたのだろう。さまざまな原因、見方がある。私は学校教育が単なる受験教育になり、受験技術だけは身につけるが、肝心の児童・生徒の興味関心を引き出したり、自分が何に向いているか、どんな仕事をしたいかという点についての教育がされていない、こうした状況を数十年も文科省は放置してきたからだと考える。<br /><br /> 上智大学も例外ではない。私は60年の新聞科卒だが、当時の同級生の大半はマスコミ界で仕事をしたいという意欲に満ちていた。ところが近年は受験競争のあおりを受けて、「上智ならどこでもいい」という学生が増えた。そのため新聞科の教授たちはマスコミで働く意義、動機付けを学生たちに培う努力をしなければならない状況のようだ。<br /><br /><span style="font-size:large;">■上智大学のユニークな入試制度を・・・</span><br /><br /> どうしたら目的意識や問題意識をもった研究意欲に満ちた学生を採用できるのだろうか。従来のように入口を狭めた入試制度を改め、門戸を広げる代わりに出口を狭める、つまり卒業基準を厳しくするのも一つの方法である。そのためには授業の質を高め、勉強しなかった者は卒業させないという方針を内外に徹底させなければならない。<br /><br /> さらには高校を卒業した後の社会体験、職場体験を重視する入学枠を別枠で設けるのもよいだろう。また他のキリスト教系の私大と連携して、取得した単位を生かしながらが大学をはじめ学部や学科を自由に移行できる柔軟なシステムをつくってはどうだろう。<br /><br /> 要するに大学入試センターを基軸とする現在の偏差値中心の入試システムをいかに解体し、上智独自のユニークな入試制度をはじめ教育、研究システムを構築できるか、発想の転換がこれからの上智の命運を決めると考える。<br />(文:横川和夫)
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富士屋ホテルでデッカー大佐の『黒船の再来』を現場検証する

 戦後昭和21年から25年まで米海軍横須賀基地司令官だったデッカー大佐(後に少将)夫妻共著の回顧録“Return of the Black Ships”『黒船の再来』を5年もかけて翻訳中。その中でデッカー司令官が泊まった箱根宮ノ下の富士屋ホテルを現場検証するため、2010年12月23,24の両日行ってきた。 3年前にも見学に行ったことはあるが、やはり風呂や部屋の中は泊まらないとみられないので、3月に迫った出版に向け最後の検...  戦後昭和21年から25年まで米海軍横須賀基地司令官だったデッカー大佐(後に少将)夫妻共著の回顧録“Return of the Black Ships”『黒船の再来』を5年もかけて翻訳中。その中でデッカー司令官が泊まった箱根宮ノ下の富士屋ホテルを現場検証するため、2010年12月23,24の両日行ってきた。 3年前にも見学に行ったことはあるが、やはり風呂や部屋の中は泊まらないとみられないので、3月に迫った出版に向け最後の検証に行ったわけだ。<br />以下はその旅日記・・・。<br /><br /> 【2010年12月23日】<br /> 23日は午後12時58分横浜発のアクティーで行く予定で、家を出たが、予定より十分早く着いたので、東海道線熱海行き普通に乗る。当たり前のことだが、途中でアクティーに抜かれ、小田原には12分遅い13:56着。<br /><br />中腹まで冠雪した富士山が車窓からだんだん大きくなる。きれいだ。<br /><br /> JR小田原駅は3年前に富士屋ホテルを見学して以来か。横浜駅より敷地はゆったりして近代化した新しい駅ビルにびっくり。ここで軽食を摂って、3番線から出発の桃源台行きのバスに14:35に飛び乗る。<br /><br /> 宮ノ下温泉で降り、640円。歩いてすぐの富士屋ホテルに3時ごろ到着。ホテルボーイが駆け下りてきて荷物を運んでくれる。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307135841ca3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307135841ca3.jpg" alt="富士屋写真&#9312;花御殿CIMG0538" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9312;「花御殿の富士屋旅館」<br /><br /> デッカー司令官がこの本で記述している正面玄関を入り、「赤い欄干のある階段」を上り、「頂上には龍の頭が寝ている」ところをさっそく写真に撮る。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140121805.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140121805.jpg" alt="富士屋写真&#9313;" border="0" width="300" height="400" /></a><br />写真&#9313;「正面玄関から入ったところにある階段の赤い欄干。この上に龍の頭が寝ている」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140329597.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140329597.jpg" alt="富士屋写真&#9314;" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9314;「赤い欄干の上に寝ている龍の頭」<br /><br /> もう少し階段を上ったところに本館ロビーがあり、チェックインすると、部屋はデッカーさんが昭和14年に齋藤博駐米大使の遺骨を米巡洋艦アストリアで運んだとき招待されて泊まったのと同じ「花御殿」だ。<br /><br /> 3階の「泡盛草」(あわもりそう)の356号室。思ったより広くはないが、荷物を置いたり、洋服やコートをかける部屋があり、それだけゆったり感がある。それに風呂場の中に、トイレが別室になっているのが特別に感じる。だけど、どこも天井が高く、暖房で部屋が温まるのに時間がかかり、寒い。<br /><br /> 花御殿はデッカーさんが昭和22年に泊まったのは「菊の間」で、「天皇の間」ともいわれる。この部屋は65&#13217;もある別格の広さ。<br /><br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201103071405047d2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201103071405047d2.jpg" alt="富士屋写真&#9315;" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9315;「花御殿の部屋での佐々木寛」<br /><br /> 周りはアジサイ、水仙、はす、百合など全部花の名前がついた部屋ばかり。幸せな気持ちにさせてくれる。<br /><br /> 午後4時と4時半から館内の見学会があり、明るいうちの4時からのに参加する。30人くらいの団体にのこのこついていく。史料展示室には三代目の山口正造さんの像がある。メインダイニングルームでの説明にはみんな80年の重みと豪華さに「うーん」とうなづく。日本的なつくりと将軍の部屋にいるようで、フランス料理にもなぜかぴったりと合う。<br /><br /><br /> 富士屋ホテルは創業が明治11(1878)年で、今年で132年。創業者は山口仙之助。この人は慶応義塾に学び、福沢諭吉の教えを受け、アメリカに渡り、羊の飼育を日本に<br />持ち帰ったが、咸臨丸で渡米した斎藤留吉(木村摂津守の従者、栃木県壬生町出身)が熱海の伊豆山で牧羊を試みたのと同じように、失敗。しかし、ホテル経営に乗り出し、大成功をする。<br /><br /> 本館が明治24年建築で、私の父の生まれた年、菊華荘(明治天皇の第八皇女美富宮内親王のために建てた別荘)が明治28年、西洋館は明治39年(義母の生まれた年)、メインダイニングルームが昭和5年、花御殿は女房の生まれた昭和11年と、デッカーさんが書いているように、何回もの建て増しをして、内部は全部複雑な廊下でつながっているが、迷路のようで、3度も迷ってしまった。<br /><br /> 三代目の山口正造は日光の金谷ホテルの二男で、廊下に展示してあった口髭のめずらしい写真(今は史料展示室に)があったように、「万国ひげクラブ」を作った人。この人がまた、ホテル経営がうまかった。箱根では日本人は奈良屋に、外国人は富士屋ホテルにと分業制にしたのが成功の秘訣。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140608ac7.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140608ac7.jpg" alt="富士屋写真&#9316;" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9316;「万国ひげクラブの面々の珍しいひげのオンパレード」<br /><br /> 見学会の説明員は宿泊課の中田裕子さん。終わって、デッカー本の富士屋ホテルの記述がある3ページを見せると「コピーさせて・・・」と事務所へ。<br /><br /> 12月18日逗子での「デッカーの功績」講演会で配った営業用の4ページとデッカー本の表紙のコピー、それに翻訳中の校正本の表紙コピーを渡す時間がなく、明日の課題として持ち越す。<br /><br /><br /> ともかく6時からの家族風呂「人魚の湯」(「人魚風呂」改め)を2,100円で予約、17:45からの夕食を19:30分に変更して乗り切る。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140716b83.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140716b83.jpg" alt="富士屋写真&#9317;CIMG0572" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9317;「人魚の湯」<br /><br /> 人魚風呂は正方形で、天井は丸くなく、「金魚風呂」は消防法で不許可になり、すでに「丸天井に金魚が泳いでいた」おもかげはどこにもない。<br /><br /> フランス料理のメニューは<br /> &#9312;ホタテ貝と牡丹海老のミキュイ ペルノー酒の香るポワロークーリ添え<br /> &#9313;白いんげんのスープ<br /> &#9314;羅臼で取れた真鱈の香草パネ ミニラタトゥユ(ratatouille)とソースフヌイユ<br /> &#9315;牛フィレステーキ 白ポルト酒風味のクリームソース<br /> &#9316;ガトーオペラ オレンジシャーベット添え<br /> &#9317;コーヒー<br /><br />でした。もちろん私には食べきれないボリュームでしたが、女房に手伝ってもらってたらふく食べ、大満足。<br /><br /> 【12月24日】<br /> 自室の源泉かけながしの風呂に5時過ぎ入り、ひげそり。女房に早すぎると文句を言われる。<br /><br /> 朝食は9時に、1号線を渡ったところにある御用邸「菊華荘」の和食にする。寒くてオーバーを着ていく。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140846a0f.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307140846a0f.jpg" alt="富士屋写真&#9318;CIMG0592" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9318;「明治天皇が第八皇女のために造った御用邸菊華荘」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201103071410599eb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201103071410599eb.jpg" alt="富士屋写真&#9319;CIMG0597" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9319;「菊華荘で朝食をとる筆者」<br /><br /> 和食を出す和室は8畳、10畳、12畳二つ、4畳など大きな座敷に本床の間、違い棚のある本格的書院造り。<br /><br /> 単独で頼めば3450円の高級和食、食べきれないしゃけ、卵焼きなどもあったが、おかゆは小さい茶碗に3杯も食べる。<br /><br /> さて、話は昭和5年、堂ヶ島の大和屋旅館に父と長女、二女、長男の3人が家族旅行したときの写真が家にある。その後追いでその旅館をコンシェルジュに訪ねると、ホテルから歩いて3分ほどの所にあるという。そばまで行ったが、急坂なのであきらめた。<br /><br /> もうひとつの目的地である芦の湯の老舗「松坂屋旅館」(「帰れなくなったドイツ兵」130人が昭和18年から22年までの4年間止宿していたところ)へ行こうと思ったが、バスで20分と教えてもらったまではよかったものの、これまた、寒くて鼻水が出てきて断念。<br /><br /> またの機会に譲ることにして、バスで下山。なぜか予定していた12:25分小田原発のアクティーに乗り、13:12横浜着。ジョイナスの地下二階でうどんを食べて二時過ぎ帰宅。<br /><br /> 【まとめ】<br /> ともかく日本最古級で、最高のホテルに行こうと駆り立ててくれたのはデッカーさんのおかげと感謝しつつ、夢気分の旅は終わった。<br /><br />2人分で交通費を含め総計67,000円ほどだったが、これも天の恵み。<br /><br /> 帰り際、チーフコンシェルジュの亀井さちさんに、営業用4ページとデッカー本の表紙のコピー、それに校正本の表紙コピーを渡し、来年3月に本が出版されたら1冊はお買い上げしてと依頼、「それは必要です」と彼女は言い、上司にもその旨伝えてもらうことを約束した。<br /><br /> 【余談】<br /> 家族風呂に行く廊下には宿泊した有名人の写真がたくさん張り出され、展示されている。 <br /> その中に昭和7年のチャーリー・チャプリン、昭和21年のアイゼンハワー元帥(後に米大統領)とアイケルバイガー米第八軍司令官の二人の「アイク」が奇しくも並んで同じ写真に写っているではないか。これは貴重な写真だ。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307141204d21.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20110307141204d21.jpg" alt="富士屋写真?CIMG0615" border="0" width="400" height="300" /></a><br />写真&#9320;「マッカーサー元帥のジーン夫人」これも珍しい写真です。<br /><br /> もう一つ、マッカーサーのジーン夫人が元帥と一緒に写っている写真もその左隣にあり、ジーン夫人の顔写真は初めて。これも必見。私にとっては大ニュースみたいなものだ。<br />(文と写真:佐々木寛(S34外・英))<br /><br /><table border="1" cellspacing="5" cellpadding="5" width="600"><tr><td>佐々木寛プロフィール<br />1935(昭和10)年、横須賀生まれ。横須賀市立豊島小、緑ヶ丘中、県立横須賀高校<br />1959年上智大学外国語学部英語学科卒<br />1959年(昭和34年)、時事通信社入社、外信部、横浜支局、南米ペルーのリマ特派員(4年3カ月)、出版局世界週報編集部次長のとき、ロンドンの国際戦略研究所編」の『軍事力バランス』を翻訳・編集を手掛け、軍事用語に精通する。マスコミ・ソフィア会会計幹事を23年間務める。</td><br /></tr><br /></table>
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