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<!-- passive:etc --><div style="text-align:center;margin-bottom:10px;"><iframe src='//assys01.fc2.com/1382' style='width:300px;height:250px;border:none;' scrolling='no'></iframe><!-- FC2管理用 --><img src="//media.fc2.com/counter_img.php?id=1368" width="1" height="1"><!-- FC2管理用 --></div><div style="font-size:8px;">上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。<br />新しい記事を書く事で広告が消せます。</div>
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「戦争インタビューシリーズ」取材

NHK岡山放送局アナウンサー 芳川隆一(2004年比日) NHKのラジオ番組「ラジオ深夜便」では、毎年夏、「戦争インタビューシリーズ」という特集を組んでいます。戦争体験者の方の話をおよそ40分間にわたって伺うというものです。 今年の夏、私は岡山県内に住む元・海軍兵士の89歳の男性にインタビューをしました。この男性は、太平洋戦争末期、フィリピンで、地元住民を襲って食料や物資を奪う「焼き討ち」という作戦... <strong>NHK岡山放送局アナウンサー 芳川隆一(2004年比日)</strong><br><br> NHKのラジオ番組「ラジオ深夜便」では、毎年夏、「戦争インタビューシリーズ」という特集を組んでいます。戦争体験者の方の話をおよそ40分間にわたって伺うというものです。<br><br> 今年の夏、私は岡山県内に住む元・海軍兵士の89歳の男性にインタビューをしました。この男性は、太平洋戦争末期、フィリピンで、地元住民を襲って食料や物資を奪う「焼き討ち」という作戦に参加した経験を持っていました。 インタビューでは、この「焼き討ち作戦」についての証言を引き出すとともに、上官の命令により作戦に参加せざるをえなかった男性の今の思いを伺いました。女性や子供を含めた地元住民に手をかけなければならなかったこと。上官の命令は絶対であり、逆らうと自分が殺されてしまう極限の状態だったこと。そして戦後63年間、これまで誰にも、このすさまじい体験を話してこなかったこと。「他に選択肢は無かった、仕方が無かったんだ・・」と、時折目に涙を浮かべながら、男性はインタビューに答えてくださいました。<br><br> 放送後、男性から電話を頂きました。「今回、自分の体験を話したことで、心の荷が降りたような気がします。感謝します。」という内容でした。この放送をきっかけに、男性は、地元の公民館などで平和のための講演を行うようになったとの事でした。<br><br> インタビューに応じてくださった男性に感謝するとともに、この仕事を通じて、人に感謝してもらえる放送をこれからも続けられるようになりたいと強く感じています。
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鎮魂の思いを深くしたベルリンのホロコースト記念碑

元医療雑誌編集 向山肇夫(1963法・法) 私は、長年懸案だったドイツへの旅の機会にベルリン市内のユダヤ人関係施設を訪れてみた。幸いなことにベルリンで宿泊した場所から歩いて2-3分のところに、何と黄金に輝く丸い屋根の壮麗なノイエ・シナゴーグがあった。かつてのシナゴーグは、1938年11月9日あの有名なクリスタル・ナハト(水晶の夜)、ナチ攻撃隊の焼け打ちにあい、その後43年には爆破されたが、3000... <strong>元医療雑誌編集 向山肇夫(1963法・法)</strong><br> 私は、長年懸案だったドイツへの旅の機会にベルリン市内のユダヤ人関係施設を訪れてみた。幸いなことにベルリンで宿泊した場所から歩いて2-3分のところに、何と黄金に輝く丸い屋根の壮麗なノイエ・シナゴーグがあった。<!--more-->かつてのシナゴーグは、1938年11月9日あの有名なクリスタル・ナハト(水晶の夜)、ナチ攻撃隊の焼け打ちにあい、その後43年には爆破されたが、3000人を収容できたヨーロッパ最大級のものであったという。このノイエ・シナゴーグは、戦後かつて崩れ落ちた建物のレンガなどを集めて建てられており、内部を見学することが出来た。警備は、厳重をきわめたが、入り口を入り歴史的写真展示、常設展示、資料室などを巡り、階段を上り展望台までいけた。1989年11月9日(偶然とはいえ、クリスタル・ナハトと同じ日)の「ベルリンの壁」崩壊後、市内はビル建築ラッシュである。そこからは、新しい街並みが一望出来ベルリンのたどった戦前・戦後の激動の歴史を思い感慨深かった。<br><br> <strong>一人の女性ジャーナリストの呼びかけからホロコースト記念碑建立</strong><br> <img id="image92" alt=ドイツ博物館A src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/yeyyacieu.JPG" width="210" hight="280" align="right" /> ベルリンの地下鉄ハレッシェス・トア駅から歩いてすぐに、斬新な設計のユダヤ博物館がある(www.jmberlin.de)。銀色の金属で覆われた巨大な建物には、刀傷のような亀裂が表面を走っていた。館内は実に巧みに「ホロコースト塔(Holocaust Tower)」部屋、「流浪の庭(Garden of Exile)」、「記憶の空間(Memory Void)」が配置されさらにユダヤ人の歴史が展示されていた。特に「ホロコースト塔」部屋には絶句した。長い地下への階段を下り、ホロコーストで犠牲になった人々の遺品見て、部屋の扉を開け中に入ると、真っ黒で何もない部屋に高い天井から微かな光が入ってくる。それは煙突を通した光のようにも見え、大量殺人ガス室の重苦しい絶望感に襲われいたたまれなくなる。いやでもホロコーストに思いをはせた。<br> <img id="image93" alt=ドイツ博物館B src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/yeyauoucee.JPG" width="210" hight="280" align="left" />さらにベルリン市内の一等地ブランデンブルグ門の近くには、日本で言えば皇居前広場だろうかホロコースト記念碑(正式名称はMemorial to the Murdered Jews in Europe虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑www.prestel.de)が、2005年5月に完成しいて見てまわることが出来た。 20世紀ヨーロッパ社会の最大の汚点といわれるナチによるユダヤ人のホロコーストについて、ドイツは長い論争を経て国家として正式にユダヤ人に歴史的責任をみとめた結果、この記念碑の完成をみている。しかも驚くことにこの記念碑を造ろうという運動は、1988年何とテレビで活躍する一人の女性ジャーナリスト(リア・ロシュ)の呼びかけで始まったという。記念碑は、死者への弔いをこめてか、広場に灰色のお棺のよう石碑が2711個並べられている。私は、鎮魂の思いを深くした。
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ソフィアンが書いた本

『美女いくさ』(びじょいくさ) 諸田玲子著(1976文英) 中央公論新社刊 2008年9月発行 1,800円+税 戦国時代を女性の視点で描いた『美女いくさ』は読売新聞の夕刊連載小説として好評を博した。ヒロイン、小督(おごう)は、お市の方の三姉妹の末娘として生まれたが数奇な運命をたどり、幼くして二度の落城を経験。二度の政略結婚を経て、徳川家に嫁ぎ三代将軍・家光の母となる。信長ゆずりの激しさと、母似の美貌で乱世を... <p><img id="image104" alt=『美女いくさ』 src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/oethuuoaaieoao080930.jpg" width="100" hight="138" align="right" hspace="10"/><strong><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120039757/twoc-22/" target="_blank" title="『美女いくさ』(びじょいくさ) 諸田玲子著(1976文英)">『美女いくさ』(びじょいくさ) 諸田玲子著(1976文英)</a></strong> <br>中央公論新社刊 2008年9月発行 1,800円+税<br> 戦国時代を女性の視点で描いた『美女いくさ』は読売新聞の夕刊連載小説として好評を博した。<!--more-->ヒロイン、小督(おごう)は、お市の方の三姉妹の末娘として生まれたが数奇な運命をたどり、幼くして二度の落城を経験。二度の政略結婚を経て、徳川家に嫁ぎ三代将軍・家光の母となる。信長ゆずりの激しさと、母似の美貌で乱世を駆け抜けた。タイトルに込められているのは「この時代の女性は添え物ではなく、大切な役割を果たしていた」との著者の思い。</p> <p><strong><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532352703/twoc-22/" target="_blank" title="『同盟変貌』~日米一体化の光と影~ 春原 剛著(1983経営)">『同盟変貌』~日米一体化の光と影~ 春原 剛著(1983経営)</a></strong><br> 日本経済新聞出版社刊 2007年5月15日発行 2500円+税<br> 最近の在日米軍再編に伴い日米同盟が大きく変貌した。それは、防衛庁が防衛省に格上げになったことにいつにする。本書は、戦後の日米同盟の変遷をたどりながら、米国が9.11テロ以後、急速に増大する中国の防衛費に対抗しわが国に同盟の対価として何を求めているかを膨大な取材レポートから明らかにしている。</p> <p><img id="image105" alt=『武打星』 src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/oedhacauiieoao081229.jpg" width="100" hight="138" align="right" hspace="10"/> <strong><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344980980/twoc-22/" target="_blank" title="『自民と民主がなくなる日』~永田町2010年~歳川降雄著(文英中退)">『自民と民主がなくなる日』~永田町2010年~歳川降雄著(文英中退)</a></strong><br> 幻冬舎刊 幻冬舎新書 2008年11月30日発行 760円+税<br> 現在著者は、新聞、メディアが伝えないインサイド(内幕)情報誌(「インサイドライン」)の編集長。その豊富な情報をもとに来るべき09年の衆議院選挙後の政界再編を大胆に予測している。注目すべきことに今日の日本の政治が、新聞界、テレビ界のドンの影響にあることは、ジャーナリズムのあるべき姿ではないと喝破している。</p> <p><strong><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458413104X/twoc-22/" target="_blank" title="『勝手にしやがれ』~阿久 悠 やせ我慢の美学~ 河村シゲル著">『勝手にしやがれ』~阿久 悠 やせ我慢の美学~ 河村シゲル著 (文独中退)</a></strong><br> KKベストセラーズ刊 2000年9月25日発行 1600円+税<br> 生涯作詞した数5,000曲、シングル売り上げ枚数6,800万枚、天才作詞家の名をほしいままにしてガンで逝った阿久 悠(悪友:ペンネーム由来)の闘病生活を長年の戦友でもあり、悪友が綴った回想録。書名の“勝手にしやがれ”は、病気に対するアイロニーでもあり、男の迫り来る死に対する精一杯の美学ともいる。</p> <p><strong><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101321558/twoc-22/" target="_blank" title="『武打星』今野 敏著(1979文新)">『武打星』今野 敏著(1979文新)</a></strong><br> 新潮社刊(新潮文庫)2009年1月1日発行 590円+税<br> 武打星とはアクションスターのこと。ブルース・リーに憧れた青年が大学卒業後、徒手空拳で香港に渡る。少年時代から続けてきた空手を生かしアジアの新たなる武打星となるために・・・。上智在学中に『怪物が街にやってくる』で問題小説新人賞を受賞。2002年刊行の再文庫化。 </p>
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ルーメル神父の広島被爆体験ビデオ(マスコミ・ソフィア会制作)を見て思うこと

元NHK記者 小林康司(1959文英)  ルーメル神父は、1945年(昭和20年)広島に人類史上初の原子爆弾が投下された際、爆心地から約4キロ北の長束修錬院に居られたそうだ。当時のペトロ・アルペ院長に命じられて、熱い焼け跡の中を幟町教会に救護活動に向かわれた。  その頃、私は大芝国民学校(今の小学校)3年生で、焼死寸前に救出されていた。後に 三篠教会でクラインゾルゲ神父によって洗礼を受けた。そのクラインゾル... <strong>元NHK記者 小林康司(1959文英)</strong><br><br>  ルーメル神父は、1945年(昭和20年)広島に人類史上初の原子爆弾が投下された際、爆心地から約4キロ北の長束修錬院に居られたそうだ。当時のペトロ・アルペ院長に命じられて、熱い焼け跡の中を幟町教会に救護活動に向かわれた。<br><br>  その頃、私は大芝国民学校(今の小学校)3年生で、焼死寸前に救出されていた。後に 三篠教会でクラインゾルゲ神父によって洗礼を受けた。そのクラインゾルゲ(帰化名:高倉)神父も幟町教会で被爆された方である。何年間か原爆症で苦しまれながら帰天された。<br><br>  私は、原爆投下当日爆心地から凡そ1,800メートルの距離にあった平屋の校舎に入った途端に「ピカ!」と光ったのは記憶しているが「ド-ン」という音は聞いていない。瞬間的な爆風で倒れた校舎の下敷きになり、頭をうっていたためであろう。核放射能の影響で20数年前から突然様々な癌を発病し、手術と治療を繰り返している。何とか今日まで生き延びている次第である。<br><br>  私は、上智大学卒業後NHKで30年余り、主にニュース取材記者として勤務してきた。その間、韓国大統領の暗殺事件を含み、幼児の死亡など数えきれない悲劇を目にしてきた。<br><br>  広島原爆投下後の感想を求められたエノラゲイ機副操縦士のロバート・ルイス大尉は、「アー神様、我々は何てことをしたのだろう。広島という都市が消えて無くなったのだ!!」と、テレビで泣きながら証言している。<br><br>  現在の核兵器は、広島、長崎型に比べて何千倍の威力があると言われている。万が一次の核戦争が始まったならば、我らが惑星、地球が消滅してしまうに間違いがない。少しでもそのような事態を防止できるならとばと、NHKを定年退職後今日まで平和運動を続けている。<br><br>  私は、昨年の8月6日(現地5日)の原爆記念日に、ニューヨークのセントラルパークで核兵器廃絶と戦争防止の平和演説を行った。「私は生きていたい!皆さんにも生きていて貰いたい!」と結んだら大変な感動を呼び、拍手が止まなかった。さらに驚くことにアメリカのヴェテランズ(退役軍人会)の人たちが謝罪とお詫びの挨拶をされた。私が行った微々たる平和貢献だが着実に実を結んでいると感じた。この運動に余生を捧げる価値があると確信し、原爆後遺症の今後も襲ってくる癌などと闘い続けるつもりでいる。<br><br> 今回のマスコミ・ソフィア会制作ビデオでのルーメル神父の主の意思伝達に共鳴する次第である。
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大人がイニシアティブを取り冷静な議論のできる日本人養成を

ジョージワシントン大学大学院 市原麻衣子(2002院国) 近年掲示板やブログなどインターネット上で意見を掲載する人が増えており、あたかも公の場で議論をできる日本人が増加しているかのように見える。しかし実際には、こうした発言をする人の多くが匿名性の仮面に守られ無責任かつ感情的な発言を一方通行的にしているのみであり、顔や名前を公表して公の場で議論をすることは極めて少ない。ブログやソーシャルネットワーキ... <strong>ジョージワシントン大学大学院 市原麻衣子(2002院国)</strong><br><br> <img id="image114" alt=市原麻衣子さん写真 src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/04/mail.thumbnail.jpg" align="left" Hspace="10" Vspace="0"> 近年掲示板やブログなどインターネット上で意見を掲載する人が増えており、あたかも公の場で議論をできる日本人が増加しているかのように見える。<!--more-->しかし実際には、こうした発言をする人の多くが匿名性の仮面に守られ無責任かつ感情的な発言を一方通行的にしているのみであり、顔や名前を公表して公の場で議論をすることは極めて少ない。ブログやソーシャルネットワーキングサービスにおいても実名を使って発言をしている人は少ない。裁判員制度に消極的な人々があまりにも多い現状にも、公の場で意見を述べる場を与えられながらそれを積極的に用いようとしない国民の姿勢が見て取れる。<br><br> 議論ができない日本人が多い理由は、日本において意見を述べるという文化的土壌が欠如していることにもあるのではないか。儒教思想に基づく社会的ヒエラルキーの下、年齢や地位が下の者が上の者に対して意見を述べることをあまり好ましく思わない傾向が今でも残っている。子どもが親に対して意見をすれば「口答え」だと怒られ、部下が上司に意見をすれば「生意気だ」と叱られる。こうした文化的背景の中、特に年齢と地位の高い者に対して反対意見を述べることのできない日本人があまりにも多く生産されてしまっているのではないか。<br><br> 日本において建設的な議論のできる人間を育てていくためには、社会的立場に関係なく冷静な意見を述べられる人間を作り出していくことが必要である。家庭においては親と子ども、学校では教師と生徒、企業では上司と部下が、上下関係に縛られることなく冷静に意見を述べ合い、それを受容し建設的かつ創造的なアイディアを作り出していくプロセスが必要である。そのために最も重要なのはこうした上下関係で「上」に位置する者の態度である。親、教師、上司、年輩者などの立場にある者が、そうでない者の意見を聞き入れ、積極的にアイディアを取り入れたり自分の意見や態度を修正したりできるような柔軟性を持つことが必要である。<br><br> 世間では最近の子供や若者のあり方が問題にされることが多い。しかし多くの場合、社会において子供の「悪い見本」となってしまっているのは大人の側である。年齢を重ね高い社会的地位を手に入れた者ほど、自己改善努力が必要とされるのではなかろうか。日本人の間で冷静な議論を行う能力を養成する鍵は、大人たちが握っているのではないだろうか。
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報道カメラの裏側から見た取材現場

報道系テレビ番組ディレクター 松本こうどう(S61外比) 警察車両が役所の正面に停まった。ダンボール箱を持ち、帽子と腕章を着用した大勢の捜査員が車から降り、無言で報道陣の前を通り過ぎて庁舎の中に消えて行く。 これは捜査当局により家宅捜索が行われるときにテレビで良くみるお馴染みのシーンである。視聴者はこの物々しい場面を緊迫感のある報道として観る。もちろん、これらの報道は事実でウソはどこにもない。だが... <strong>報道系テレビ番組ディレクター 松本こうどう(S61外比)</strong><br><br> 警察車両が役所の正面に停まった。ダンボール箱を持ち、帽子と腕章を着用した大勢の捜査員が車から降り、無言で報道陣の前を通り過ぎて庁舎の中に消えて行く。<!--more--> これは捜査当局により家宅捜索が行われるときにテレビで良くみるお馴染みのシーンである。視聴者はこの物々しい場面を緊迫感のある報道として観る。もちろん、これらの報道は事実でウソはどこにもない。だが、そこにはカメラが捉えていない見えない真実が潜んでいる。それは一体何か?少し長くなるが実例でお話したい。 <img id="image111" alt=取材中の松本こうどうさん src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/04/eaaaeieueuo.thumbnail.jpg" align="left" Hspace="10" Vspace="5"> 去年の夏にある教育委員会の家宅捜索を取材したときの話である。この日は教員採用試験汚職に関連して遂に県警の強制捜査が入った。大勢の報道陣が待ち構える中、教育委員会の建物前に警察の白いバンが到着する。さっそうと入口に向かう十数名の捜査員たち。報道陣にも緊張が走る瞬間である。しかし、ここで番狂わせがあった。 休日のこの日、入口はカギが閉まっており、中からは誰も出てこない。事前に報道陣が集まっているくらいである。当然に教育委員会関係者も家宅捜索が行われる日時は知っているはずと思われるが誰もいない。仕方なく、真夏の炎天下の中、捜査員たちはクーラーのきいた車に戻って関係者が来るのを待つ。報道関係者もカメラを置き、建物の日陰で様子を見守る。<br><br> 30分もすると、車の中の捜査員たちは帽子を取り姿勢を崩して休み始めた。その後に教育委員会のトップが現れてやっと裏口を開けたが、担当者がいないということで捜査員たちは待機のままであった。担当者不在は強制力を持った家宅捜索を開始しない理由にはならないはずだが、捜査員たちからは何の説明もない。<br><br> そのうち、車から降りてきた数名の幹部捜査員たちが裏口付近で教育委員会トップと何と笑顔で雑談を始めた。だが、一向に家宅捜索は始まらない。あきれる報道陣をよそに、家宅捜索の予定時間を2時間近く過ぎてやっと教育委員会の職員が数人現れた。<br> 裏口から中に入るトップと職員一同。すると捜査員たちは車に戻り、帽子と白い手袋を着用して凛々しい顔つきで、再度物々しく車から降りる場面を始めた。あたかもカメラ用に演技をしているかの様な雰囲気である。報道陣たちのカメラが回り、レポーター達はたった今捜査員が到着したかの様な現場実況を始める。無言で報道陣の前を通り過ぎて入口から庁舎の中に入る厳しい表情の捜査員たちの面々。これがテレビで良くみる緊迫感ある家宅捜索シーンが始まった瞬間であった。<br><br> もちろんテレビ報道では待機中の事は放映しない。画として流れの良い場面しか見せないが、報道としてウソや捏造はどこにもない。驚かれたかも知れないが実は、こういった出来事は決してめずらしい話ではない。だが、これで本当に視聴者に事の本質は伝わったのであろうかといつも疑問に思う。<br><br> この話を例にとると、教育委員会トップと警察幹部との馴れ合いの様子から彼らが懇意の仲であることは容易に察しがつく。家宅捜索前に容疑をかけられている側と捜査側が雑談をして、果たして正当な捜査がなされるのであろうかと疑問に思う人たちも多いと思う。しかし、視聴者にはこの様子は知らされないのである。知らない以上は事の本質を知る由もない。<br><br> ここでわかって頂きたいのは、テレビの報道はあくまでも「事実の切り取り」であるという事である。カメラで切り取られた部分は「事実」ではあるが、それだけではすべての「真実」は見えてこないのである。 この教育委員会の話には続きがある。家宅捜索後に記者会見を行ったトップは「大変なことと思っている」と神妙な面持ちで答えた。しかし、家宅捜索が非公開であったことを疑問に思っていた報道陣からその事を質問されると急に不快な表情になり、語気を強めて一方的に会見を打ち切った。<br> これでは家宅捜索は警察と教育委員会との馴れ合いで行われた形式的なものにすぎなかったのでは?との疑念を抱かせた。だがどういうわけか、この居直りとも思えるトップの様子はNHKをはじめ民放各局のどこも放映しなかったので、ほとんどの視聴者には記者団の前で真摯な態度でいるトップの印象しか残っていないと思う。 ほとんどと言ったのは、実は私は担当する番組のニュース枠でこのトップが語気を荒げた画をしっかりと流したのである。明らかに他と違う報道になったと思う。<br><br> 現場取材した者は皆、すべての場面を放映から外したくないと思う。しかし、そういった熱意とは裏腹に、テレビ報道では事実は切り取られて放送される。だから、そこにあるカメラが捉えていない真実を見極める目を我々は持たなくてはならない。
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そもそもミスコンらしさとは?

2008年度ミスソフィア 古谷有美(外・英2年) 「有美はミスコンらしくない」コンテスト中に友人から言われた言葉。自分の人生ともっと積極的に向き合っていきたいと思い、臨んだミスソフィアコンテストでしたが、私は皆とは違う認識を持っていたようです。私は「美」の競争という意味でのミスコンには全く興味がありません。しかし、自分の美しさへの自信という事ではなく、もっと違う意味でのミスコンには興味がありまし... <strong>2008年度ミスソフィア 古谷有美(外・英2年)</strong><br><br> <img id="image90" alt=古谷有美(外・英2年) src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/aaieth.jpg" width="113" hight="170" align="left" Hspace="10" Vspace="5"> 「有美はミスコンらしくない」コンテスト中に友人から言われた言葉。自分の人生ともっと積極的に向き合っていきたいと思い、臨んだミスソフィアコンテストでしたが、私は皆とは違う認識を持っていたようです。<!--more-->私は「美」の競争という意味でのミスコンには全く興味がありません。しかし、自分の美しさへの自信という事ではなく、もっと違う意味でのミスコンには興味がありました。今では多くの大学で当たり前のように実施されるミスコンですが、ただ一人しかいないミスソフィアへの切符を手にした者は、他大学と同じ道を歩まず、上智のミスコンを「美」の競争以上のものにしなくてはならない使命があると思っていたのです。<br><br> この考えは、ソフィアの名を背負う者は、「ミス女子大生」ではなく「ミスソフィア」であるべきという意識として、コンテストの期間中に一段と強くなりました。そして、たどり着いた結論。それは、女性としての「美」だけではなく、人間としての「個」を思う存分伝えて行き、上智のミスコンのあり方を変えて行きたいということです。 では、「個」とは何でしょうか。私は自分の「個」とは「らしさ」だと思っています。 人が人を「その人らしい」と思うときというのは、「その人しか出来ない」、「その人ならやりそう」という行動を目にした瞬間だと思います。でも、何がどう「らしい」のかは説明できない。<br><br> だから、「らしさ」と同じ様に「個」も言葉での表現は難しいのですが、私はミスコン期間中にブログで、自分の好きなモノや考えなど内面に触れる内容をたくさん書き、私の未熟な「個」を「自分らしさ」で何とか伝えようと努力しました。今でも、その姿勢に変化はありません。これからは自分自身の考え方で、上智とこれからのミスコンの進歩に貢献し、何よりもOBの方々を含めたすべてのソフィアンを大切にする「ソフィアンの女性」に成長して行きたいです。それが、私の「個」であり、そして私が考える「ミスコンらしい」“ミスソフィア”の姿であります。
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日本初の水上飛行機の写真を発見 カーチス複葉機、約100年前、横浜で初公開飛行

元時事通信記者 佐々木寛(1959外英)  皆さん、日本で初めて飛行機が飛んだのはいつか、ご存じだろうか。 1910(明治43)年に陸軍の徳川好敏大尉が代々木練兵場で飛んだのが初めてデ、99年前のことである。しかし、その2年後の明治45年に日本海軍がアメリカのカーチス社の単発複葉水上機をわが国で初めて公開飛行した時の写真が私の父のアルバムから見つかった。 これは日本帝国海軍が飛行機を導入するきっかけとなっ... <strong>元時事通信記者 佐々木寛(1959外英)</strong><br><br> <img id="image101" alt=カーチス飛行機 src="http://www.cumsophia.jp/wp-content/uploads/2009/03/yyayeoouc038.jpg" width="167" hight="230" align="left" Hspace="10" Vspace="5">  皆さん、日本で初めて飛行機が飛んだのはいつか、ご存じだろうか。<!--more--> 1910(明治43)年に陸軍の徳川好敏大尉が代々木練兵場で飛んだのが初めてデ、99年前のことである。しかし、その2年後の明治45年に日本海軍がアメリカのカーチス社の単発複葉水上機をわが国で初めて公開飛行した時の写真が私の父のアルバムから見つかった。 これは日本帝国海軍が飛行機を導入するきっかけとなったプレヒストリーの1ページである。父は佐々木親(ちかし)といい、岡山出身、明治44年に横須賀の海軍機関学校20期卒、昭和11年44歳のとき海軍機関大佐で退役した。<br><br>  私の曽祖父が咸臨丸で日本人として初めて勝海舟らと太平洋を横断した濱口興右衛門(浦賀奉行所与力で、長崎海軍伝習所1期生)、祖父が東大医学部卒で日清、日露戦争に参戦した青木甲子三海軍軍医大監、父が機関大佐、兄が海軍機関学校54期卒で中尉と、四代にわたり海軍に奉職した珍しい家系。<br><br>  昨年6月、父の明治35年から大正5年までの古いアルバムを、横須賀自然・人文博物館、で調べたが、この「カーチス」複葉機の5枚連続写真が何であるかわからなかった。  ところが、7月になって、井上吉隆元横須賀市助役から借りた『横須賀と海軍』(昭和58年、海上自衛隊横須賀地方総監部発行、横監付一佐森田衛著)という冊子に「海軍航空隊関係施設」という項目があり、その中の表の一行目に「カーチス」の名前がみつかり、大喜び。<br><br>  それによると、飛行機名=カ式水上機、発動機=カーチス、座席=2人乗り、全長8・4メートル、全幅=11・3メートル、全速=43ノット、年代=大正元年(=明治45年)とある。  アルバムのキャプションには「明治45年5月11日横浜におけるカーチス」とあり、桟橋から大観衆が見守る中、1人の飛行家が丸い操縦かんを握って単発プロペラ複葉機で桟橋から飛び立つ模様が5枚連続写真で映っている。無事15分間のテスト飛行は成功したようである。<br><br>  父の5年先輩に中島知久平機関大尉(15期)がおり、この写真は中島大尉からもらったものではないかと推察される。中島大尉は大正2年に横須賀海軍工廠造兵部に新設した飛行機工場の主任となり、のちに中島飛行機?をつくった人である。<br><br>  明治45年6月25日海軍航空術研究委員会が発足したのは、アットウォーターという飛行家によるカーチス機の公開試験飛行がきっかけであった。この試験飛行には斎藤実海相や海軍首脳ら一般人も含めて数千人が参観したという。 大正元年11月に研究委員会は追浜に研究所をつくり、また、河野三吉大尉がカーチス水上機で、金子養三大尉はモーリス・ファルマン水上機で、それぞれ初めて飛行した。同月12日横浜沖の観艦式当日、金子大尉がファルマン機、河野大尉がカーチス水上機で参加した。ちなみに、アメリカのライト兄弟が飛行機を発明したのは1903(明治36)年である。
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