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【短期連載:最終話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------第六話世界で初めての国連合同事務所の設立準備体験と中国のアフリカ進出から反面教師として学ぶ日本外交の在り方------------------------------------------------------------------(写真:カーボ・ベルデの地図の切手)▲カーボ・ベルデでの始めての国連... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第六話<br />世界で初めての国連合同事務所の設立準備体験と<br />中国のアフリカ進出から反面教師として学ぶ日本外交の在り方</span><br />------------------------------------------------------------------<br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc91e382abe383bce3839ce38399e383abe38387e381aee59cb0e59bb3efbc88e58887e6898befbc89s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc91e382abe383bce3839ce38399e383abe38387e381aee59cb0e59bb3efbc88e58887e6898befbc89s.jpg" alt="" title="第六話 1カーボベルデの地図(切手)s" width="400" height="298" class="alignnone size-full wp-image-150" /></a><br />(写真:カーボ・ベルデの地図の切手)<br /><br /><span style="font-size:large;">▲カーボ・ベルデでの始めての国連合同事務所</span><br /><br />「保健衛生でWHOとUNICEF, UNAIDSとUNFPAというように同じような組織が、国連間にあり援助活動が、効率的でない。国連の職員の活動費が高い。」という批判が国連加盟国(特にドーナー国)より強くありました。<br /><br />そんなわけで、国連の始めてのケースとして、国連改革の一環として国連合同事務所の創設に2005年より2006年まで、カーボ・ベルデで関与しました。WFP/UNICEF/UNDP/UNFPAの4つの国連機関が事務所を一緒にするという画期的なものでした。特に、国連のドーナー国からは同じ国連の組織なのに、事務所が別々で、各機関の代表が居て、開発計画予算も別々でおかしい。1つの同じビルにして、開発計画も、代表も、予算も1つにするという目的でした。<br /><br />カーボ・ベルデは国連人間開発指数も高く(2005年においては、177カ国中、105位でアフリカのなかではセイシェル、モーリシャスに次いで、3位)、世銀からも優等生と評価されて、初めての実験を最初から、担当しました。組織図の作成から、誰が何を具体的にするのかというジョッブ・デスクリプシォン(職務内容記述)を作成し、朝6時から夜11時まで働く日が続きました。何故、6時から23時まででしょうか?これは、本部がニュウ・ヨーク(NY)とローマと分かれており、時間の調整が大きな理由です。もう1つの大きな理由は、WFP・UNICEF・UNDPの前任者は、準備する前に皆、代表としてのポストがひとつになり、自分の行き場が無くなると言う理由で、事前逃亡、つまり、各機関で、他の国へ転勤してしまったことでした。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc92e38388e383abe38387e382b7e383aae383a3e382b9e69da1e7b484e381aee58887e6898bs.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc92e38388e383abe38387e382b7e383aae383a3e382b9e69da1e7b484e381aee58887e6898bs.jpg" alt="" title="第六話 2トルデシリャス条約の切手s" width="300" height="98" class="alignnone size-full wp-image-151" /></a><br />(写真:トルデシィリャス条約の切手)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc93e382abe383bce3839ce38399e383abe38387e381aee59bbde980a3e38393e383abs.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc93e382abe383bce3839ce38399e383abe38387e381aee59bbde980a3e38393e383abs.jpg" alt="" title="第六話 3カーボベルデの国連ビルs" width="300" height="201" class="alignnone size-full wp-image-152" /></a><br />(写真:カーボ・ベルデの国連ビル)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc94e382bbe382b6e383aae382a2e383bbe382a8e383b4e382a9e383a9s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc94e382bbe382b6e383aae382a2e383bbe382a8e383b4e382a9e383a9s.jpg" alt="" title="第六話 4セザリア・エヴォラs" width="300" height="409" class="alignnone size-full wp-image-153" /></a><br />(写真:Cesaria Evoraの切手)<br />※<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%A9" target="_blank">Cesaria Evora(セザリア・エヴォラ)さん</a>は、カーボ・ベルデ出身の女性歌手。<br />※2003年のアルバム『Voz D'Amor』が米グラミー賞を獲得<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc95e382bbe382b6e383aae382a2e381a8e7a781s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc95e382bbe382b6e383aae382a2e381a8e7a781s.jpg" alt="" title="第六話 5セザリアと私s" width="300" height="201" class="alignnone size-full wp-image-154" /></a><br />(写真:私とCesaria)<br /><br />長くなりますので、結果を話しますと、<br /><br />まず、NYとローマから採用ミッシォンとして、全部で8名(各機関2名)それに、ローマから、ポルトガル語が出来るブラジル人が1名の9名がカーボ・ベルデに来ました。1週間で38名の現地職員の試験と面接です。<br /><br />問題は言葉(カーボ・ベルデの公用語はポルトガル語です)の壁です。今でも覚えているのは、ミッシォンに次のように、話したことです。<br /><br />「1週間で、どうやって採用出来るんですか?書類選考に2日、筆記試験に1日、面接に3日、それに、最後の1日間の最終決定では、時間が短すぎます。皆さんの内、ポルトガルが理解できるのは1人だけじゃないですか?それに、問題は4星のホテルと国連の事務所だけ往復して、カーボ・ベルデの問題がわかりますか?職員の能力を適切に判断出来ますか?貧困対策が合同事務所の大きな目的ではなかったですか?」<br /><br />わたしの提言は残念ながら、通りませんでした。逆に、わたしの態度が問題だとNYの本部とローマにクレームが行ったそうです。それに、現地職員の意向が採用されず、NYとローマから来た国際スタッフのみで結論を出しました。そのため、大きな混乱と矛盾を生みました。4つの機関が何をして、何の能力が要求されるのかが各機関の採用代表ミッシォンが分からず、何の基準で採用されたのかが、不透明でした。例えば、運転手でも、問題のある運転手が面接での受けが良く、その能力は中立に判断されずに、運転手として一番高いポストに決められたりと。。。。<br /><br /><span style="font-size:large;">▲その失敗</span><br /><br />とにかく、合同事務所は発車しました。ところが、ここに、更に大きな根本的な落とし穴が待っておりました。それは、4機関の通信・ソフトウエアが全く違うことでした。結局、UNDPのシステムに従うことにしました。しかしながら、WFPのシステムはUNDPとは、水と油で、まったくかみあわず、結局、WFPは以前のファクスのシステムに変えるしか方法がなく、Accounting(アカウンティング)がスムースに出来なくなってしまいました。<br /><br />それに、勤務方法の違いです。WFPは現場主義、他の機関は首都圏の大蔵省・外務省との仕事が、大部分で、貧困対策を担当にした部門のスタッフは、国内の出張がまったくなく、他のアフリカ諸国への貧困対策の海外出張ばかりで、その予算の出費が重なったことでした。貧困対策には現場に行き、何が問題で、何をしなければならないかという現場に行く発想も実行もありませんでした。<br /><br />結局、このような形の合同事務所は結果が出ずに、失敗となり、二度と同じ形の国連改革は行われていないと聞いております。失敗の理由にはTopDownでBottomUpのシステムが無いことです。コンピューターのソフトが違うことは本部で始める前から分かっていなければならないABCではないですか?<br /><br /><span style="font-size:large;">▲国連の日当問題</span><br /><br />国連は出張で受け取る日当が高く、例えば、アンゴラのルアンダでは401ドルから530ドルで、東京の340ドルに比べて、はるかに、高く、矛盾を感じます。さらに国連の上層部は海外出張が多く、主張日数が勤務の半分近くに昇る人たちがおります。つまり、毎月の給料のほかに、日当が入るわけです。どこへいっても、食べることはするので、ホテル代のみ支払いするようにすれば、経費も削減すると思うのですが。。。この経費節減が国連改革の最初のステップになる筈です。<br /><br /><span style="font-size:large;">▲中国の戦略に学ぶ</span><br /><br />最後に、第三話から第五話まで、中国のアフリカへの津波のような進出を述べましたが、中国の人海戦術のやりかたは、日本も大いに、学んで行くべきかもしれません。中国のアフリカ支援で、いつも語られるのは、1970年から1975年までかけた2000キロにわたるアフリカ最長のタンザン鉄道の成功です。ザンビアとタンザニアが世銀及び欧米の銀行に資金援助を要請し、断られた結果にも拘わらず、結局、中国が、資金援助と建設を人海戦術で、行いました。工期も予定より2年も早く完成し、中国援助の代名詞です。その苛酷な労働条件のなかで、中国はマラリアの薬、アルテミシニンを開発するという画期的な偉業も成しえました。それに、中国の外交は対台湾外交との切磋琢磨のなかで磨かれたことも、重要な要因です。その他に、中国外交の真髄は、国家首脳のアフリカ歴訪が1995年より2009年まで、13回に亘って、李鵬首相、江沢民国家主席、朱溶基首相、温家宝首相、胡錦濤国家主席によって、ほぼ毎年行われ、江沢民国家主席と胡錦濤国家主席は其々、4度、アフリカを訪問しております。訪問国は28カ国に及び、南ア、エジプト、モロッコには、その間、各4度、訪れております。日本は元森首相と元小泉首相との2度のみです。日本のアフリカ外交も、中国のように、政府要人が度々、訪れ、アフリカの重要性を知っていただきたいものです。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc96e4b8ade59bbde9a696e884b3e381aee382a2e38395e383aae382abe6adb4e8a8aae381aee59cb0e59bb3.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace585ade8a9b1e38080efbc96e4b8ade59bbde9a696e884b3e381aee382a2e38395e383aae382abe6adb4e8a8aae381aee59cb0e59bb3.jpg?w=300" alt="" title="第六話 6中国首脳のアフリカ歴訪の地図" width="300" height="267" class="alignnone size-medium wp-image-155" /></a><br />(挿入:中国首脳のアフリカ歴訪地図)<br /><br /><span style="font-size:large;">▲援助ではなく、投資と貿易の推進を</span><br /><br />アフリカ援助でいままで費やした額は1兆ドルと言われています。それで、援助から独立し自立した国はほとんど皆無です。中国のやり方は国連安保の常任理事国ながら、国連に対しては、その分担金は、アメリカ、日本、ヨーロッパに比べれば、はるかに低く、また国連機関をつうじての援助も殆ど無く、その方法論は投資と貿易です。日本は、このようなやり方を少し、見習うべきものと考えます。具体的には、TICADと中国アフリカ会議を合同で行うとか、実現できるのではないでしょうか?<br /><br /><span style="font-size:large;">▲国連:NATO(No Action, Talk Only)</span><br /><br />日本の国連外交の問題に関しては、コムソフィアの機関紙の9月号を参照して頂きたいのですが、結論を述べますと、日本の国連外交、特に、安保理の常任理事国入りに関しては、なぜ、国連外交なのか、何故、常任理事国になる必要性があるのかの議論が不足していると感じます。国連はNATO(No Action, Talk Only)と言われます。十分に今までのパーフォーマンスを調査、検証をする必要があると思います。民主党の小沢一郎さんが国連外交を強調しておりますが、国連の無能さを理解していないと思います。援助ではアフリカの問題は解決しません。中国のように、投資、貿易を促進する方法に転換する必要を痛感します。<br /><br /><span style="font-size:large;">▲日本外交</span><br /><br />日本外交は、現場、特に、大使館を、わたしなりに、判断しますと、まず、アフリカにおいては、アメリカ大使館が情報源で、アメリカよりの情報一辺倒で、独自性が無く、かなり弱く感じます。アンゴラではそのことを痛感しました。国連中心でない中国外交をもう少し研究する必要性があると感じます。<br /><br />先日8月26日付新聞に依りますと、国会議員の外遊の総額が6億2千万円で、一人当たり225万円と報告されておりましたが、問題はその額だけではなく、大使館のアテンド費用と費やされる時間も、さらにかかり、或るパリ勤務の大使館員の話ですと、議員のための、観光業務が、ばかにならないとこぼしておりました。それに、外遊の報告が一般に公開されていないことです。先ず、何のための外遊なのか、その目的が達成されたのかといった基本が出来ていないことが問題と思います。TaxPayerに対してもう少し義務感を感じてもらいたいものです。<br /><br /><span style="font-size:large;">▲SMARTの考え方を</span><br /><br />30年国連に勤務し、外から、日本を見ると、マスコミの弱さを感じます。<br /><br />日本社会の白と黒をハッキリさせず、灰色の論調さです。<strong>SMART(Specific、Measurable、 Achievable、Realistic、Transparent)</strong>をいつも、私自身を含めて、論評及び計画と結果を追求していければ、世の中は変わっていくのではと思っています。<br /><br />末尾になりましたが、今回の報告では、マスコミ・ソフィア会の磯浦康二さん、横川和夫さん、土屋夏彦さんのお世話になりました。アフリカの石器時代のような生活から、コンピューターでの活字での文章作りと、わたしの慣れない仕事を、皆さんが支えてくれました。改めて感謝致します。今回は中国に焦、点を置きましたが次に報告する際はもう少し、現場体験に絞って、援助の功罪、アフリカでの生活環境を述べて見たいと思っています。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-49.html" title="<第五話へ>"><第五話へ></a> <a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-45.html" title="<第一話へ>"><第一話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br />------------------------------------------------------------------
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【短期連載:第5話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------第五話 資源を持ち去る中国~ 中国の石油と鉱物資源の世界戦略~中国アフリカへ戻る ~------------------------------------------------------------------(鄭和航海600年記念切手)2005年に中国から鄭和航海600年を記念して発行された記念切手。鄭和(... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第五話 資源を持ち去る中国</span><br />~ 中国の石油と鉱物資源の世界戦略~中国アフリカへ戻る ~<br />------------------------------------------------------------------<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e984ade5928c600e5b9b4e58887e6898befbc91.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-123" title="鄭和600年切手1" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e984ade5928c600e5b9b4e58887e6898befbc91.jpg" alt="" width="400" height="221" /></a><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e984ade5928c600e5b9b4e58887e6898befbc92.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-124" title="鄭和600年切手2" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e984ade5928c600e5b9b4e58887e6898befbc92.jpg" alt="" width="400" height="233" /></a><br />(鄭和航海600年記念切手)<br /><blockquote>2005年に中国から鄭和航海600年を記念して発行された記念切手。<br />鄭和(ていわ)とは明の時代の最も有能な宦官の一人で、身長2メートルの巨漢だったと言われている。中国は、200隻近くの大船団を組織して600年も前からアフリカまで航海していた。<br />(※引用:http://mochamocha090106.blog65.fc2.com/blog-entry-201.html)</blockquote><br /><span style="font-size:large;">▼資源を持ち去る中国~新植民地主義</span><br /><br />つまり単刀直入に言えば、問題を抱えたアフリカの国に入り込んで、資源を持ち去るやり方が、中国の戦略です。現在、中国はアンゴラの石油輸出ではアメリカに次ぐ2番目に多い国です。ストックホルム国際平和研究所の2008年度の資料によれば,中国のアフリカへの武器輸出は、アンゴラ以外にも、スーダン、ジンバブエなど、17カ国に上ります。2005年2月には、中国が船を一隻チャーターして、軍事品をジンバブエの独裁者のムガベ政権に援助していることが、マスコミに暴露されました。或る人はそれを新植民地主義と呼びます。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼援助と抱き合せの人海戦術</span><br /><br />中国の“援助”と称するやり方の特徴は、援助と抱き合わせで、大量の中国人をアフリカ諸国に低賃金で送り込む人海戦術です。前回少し述べましたスーダンでは中国人が自らの手で石油を掘り、その石油を自分たちで作ったパイプラインで約60%の石油を中国に運びだしているわけです。250万に上る国内外避難民を生みだし、人権問題で追及されるスーダンのダルフール紛争とそのバシル大統領を支える中国の関係のため、2008年の北京オリンピックで、直前まで、欧米が参加をボイコットしたことをご記憶のことと思います。<br /><br />アンゴラでは、道路建設・復旧工事、1000キロにわたるベンゲラ鉄道の復旧工事(ロビト港よりザンビア・コンゴ民主共和国までの鉄道)、軍人用の住宅建設現場に、中国人自身が、労働者となり、直接たずさわっています。首都ルアンダの飛行場の建設も請け負っております。日本や欧米が人海戦術はとらず、現地下請が普通なのとは正反対です。例えば、一日当たり食事・住居つきで1ドルが支払いに対して、外国企業は現地のアンゴラの労働者に3ドルから4ドルの支払い。中国の技術者は欧米の給料の6分の1の値段とのことでした。<br /><br />それに、安い製品を売るチャイニーズ・ショップを通じて、中国人が無数に増加しております。アンゴラのウアンボ市では2002年から2006年までの間に、20店以上に増え、隣国のナミビアのアンゴラ国境の町、オシャカテ市では1999年より2006年までの間に75店に上り、現在進行中です。カーボ・ベルデでは、チャイナタウンが出現して、以前からあった店は閉店休業に追い込まれています。南ア、レソト、ケニア、モーリシャス、ナイジェリアでは繊維産業が打撃をうけました。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼中国人に乱獲されたアワビ</span><br /><br />資源の略奪は石油、鉱物資源のみならず、木材の伐採、漁獲資源、動物資源にも及びます。南アフリカのケープ・タウンを中心としたアワビの90%は中国人によって乱獲され、ギニア・ビサウでは、フカヒレを取った後の魚を燻製をつくるため、マングローブを伐採した結果、一つの島の3分の1が失われました。ジンバブエではサイは乱獲されて、角は中国へと輸出されています。木材の伐採はガボン、カメルーン、コンゴ民主共和国、中央アフリカで行われております。ザンビアでは銅鉱山に投資をしました。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e3839ee383b3e382b0e383ade383bce38396e381aee896aas.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-126" title="第五話 マングローブの薪s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e3839ee383b3e382b0e383ade383bce38396e381aee896aas.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a><br />(写真:マングローブ伐採)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e3839ee383b3e382b0e383ade383bce38396e4bc90e68ea1s.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-125" title="第五話 マングローブ伐採s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e3839ee383b3e382b0e383ade383bce38396e4bc90e68ea1s.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a><br />(写真:伐採後ふかひれを燻製にするための薪)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e381b5e3818be381aee381b2e3828ce38292e58f96e381a3e3819fe5be8ce381aee381b5e3818bs.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-127" title="第五話 ふかのひれを取った後のふかs" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e381b5e3818be381aee381b2e3828ce38292e58f96e381a3e3819fe5be8ce381aee381b5e3818bs.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a><br />(写真:ふかひれを取った後のふか)<br /><br /><span style="font-size:large;">▲中国の21世紀の大きな動きと外交力~中国の石油と鉱物資源の世界戦略</span><br /><br />中国は2006年11月に北京で中国・アフリカ会議を開催し、48カ国のアフリカの首脳が集まり、国連のニュウ・ヨークの会議以上のダイナミックな会議だったそうです。その折、札束のばらまきの援助をおこない、例えばナイジェリアのラゴス・カノ間の鉄道建設費用に83億ドルの融資を決め、3000人の中国人鉄道労働者、ダム建設に8000人を送り込みとその影響力を強めています。<br />わたしは、当時、ガーナに出張中で、ガーナでも、ブイ水力発電ダム建設に中国の資金が6億ドル約束されたと現地のマスコミの大きなニュースでした。(注:日本の2008年5月TICAD(アフリカ開発会議)では41カ国の首脳レベルの参加がありましたが、インパクトから見ると、中国の2006年の会議に比べれば、それほどではありません。)その後2006年12月には、China Southern Airlines(中国南方航空)で、ドバイ経由で、北京・ラゴス間の週3便の飛行機の運航、北京・ルアンダ(アンゴラ)の運航とその影響力の足を確保させております。それに、最近はギニアへの進出が目立ちます。<br /><br />ギニアは、鉱物資源が豊富で、特に、ボーキサイト(世界で品質が最高と言われます)がオーストラリアに次いで、世界2番目の輸出国。その他、鉄鉱石、ダイアモンド、金、石油、ウラン、コバルト、ニッケル、プラチナなどの資源に恵まれています。ボーキサイトは年間2千万トンの生産があり、3000億のビール缶、3500万台の車のシャーシーを生産出来ます。中国の狙いは、ボーキサイトです。ギニア・ビサウでも、ボーキサイトをアンゴラ政府と共同で、開発を進め、新たな港・鉄道、建設に着工始めております。<br /><br />2009年6月中国の石油会社シノペックはスイスのアダックス石油を買収し、アフリカへの更なる石油戦略へと進んでいます。中国のアルミニウム会社「チャイナアルコ」は410億ドルを投資し、南アのアングロ・アメリカンそして世界的に有名なダイアモンド会社の「デ・ベアス」をコントロールしようとしています。2007年以降は銀行への進出も目立ちます。中国工商銀行が55億ドルを投じて、南アフリカのスタンダード銀行の株式の20%を買い取りました。2009年7月中国銀行はブラジルのサン・パウロに最初の支店を開設、2010年中にはカーボ・ベルデとビサウにも支店を開設の予定。<br /><br /><span style="font-size:large;">▲中国アフリカへ戻る</span><br /><br />世界史で勉強したと思いますが、中国は、明の永楽帝の時代に鄭和(ていわ:1371-1434)の船団が、1405年より1433年までの間に7回に亘り、大艦隊を率いてアフリカ東岸に及びました。これが、南洋華僑の発展の契機になります。その船の規模は、長さ150m、幅62mで500トン級で、バスコ・ダ・ガマのポルトガル艦隊の4倍強で、コロンブスが新大陸の発見の際の船の2倍の大きさ、ポルトガルの大航海時代よりも90年以上早く(バスコ・ダ・ガマのインド到着は、1498年)、従って、21世紀に“アフリカに戻って来た”と主張しております。また、中国は西欧よりも早くアフリカに到着したが、その当時は一度もアフリカを西欧のように、植民地化したことがなく、ただ、明の皇帝に「キリン」を贈呈しただけだとも言っておりますが、21世紀の中国のアフリカ進出は、さらに、津波のように進化していくものと考えられます。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e984ade5928ce381aee382a2e38395e383aae382abe888aae8b7afe381aee59cb0e59bb3s.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-128" title="第五話 鄭和のアフリカ航路の地図s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e984ade5928ce381aee382a2e38395e383aae382abe888aae8b7afe381aee59cb0e59bb3s.jpg" alt="" width="400" height="287" /></a><br />(写真:鄭和のアフリカへの航路地図)<br /><br />日本の対中国のODAは1980年以来、24年間で、3兆3000億円といわれています。それを、中南米・アフリカに武器援助を含めて、相当額をまた貸ししていたと言われています。1980年代のイラン・イラク戦争期間中での最大の武器供給国は中国だそうです。中国の大使館はアフリカに46カ国に在り、日本は今年1月に新設したベナンを含めて31カ国です。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e59cb0e99bb7e381aee8a2abe5aeb3e88085s.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-129" title="第五話 地雷の被害者s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e59cb0e99bb7e381aee8a2abe5aeb3e88085s.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a><br />(写真:地雷で足を失った女性)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e59cb0e99bb7e692a4e58ebbe381aee58699e79c9fs.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-137" title="第五話 地雷撤去の写真s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e59cb0e99bb7e692a4e58ebbe381aee58699e79c9fs.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a><br />(写真:地雷除去の写真)<br /><br /><span style="font-size:large;">▲中国は国連よりの食糧受益国</span><br /><br />中国は2005年12月まで、WFP(国連世界食糧計画)からの食糧の援助受益国でした。食糧援助を受けながら、アフリカへ投資と援助をしていたのですから、その政策は、一方は驚きであり、もう一方では日本も何か見習うべきかもしれません。<br />1998年ノーベル経済学賞の受賞者のアマテヤ・セン氏に依れば、食糧危機の在るところには、民主主義は無いと語っております。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼アンゴラに中国人の移民計画も</span><br /><br />元来、東・南部アフリカはインド人(ガンジーも南アで弁護士をしていた)、西アフリカはレバノン人が商売を独占しておりましたが、現在は中国人の数が、それらを凌駕しています。アンゴラでは現在約20万人の中国人がおりますが、中国政府とアンゴラ政府の間で、300万人の中国人の移民計画が進められています。<br /><br />アフリカ全体では現在、100万人強の中国人が居留していると言われます。南アでは、1946年に4千人だった中国人が、1980年に1万人、1998年に、12万人で、現在は40万人と推定されます。日本の外務省のホームページに依ると、在留邦人の数は4500人(うち南アフリカに1500人、残りの3000人の3分の1が海外青年協力隊員)とのこと。アフリカの総面積は3030万平方キロメートルで、総人口は10億人、一方、中国の総面積は960万平方キロメートルで人口13億人。アフリカが面積で中国の3倍にもかかわらず、人口は中国の7割という状況では、ますます中国人のアフリカ進出は加速されていくだろうと思われます。アフリカ進出によって、ますます、中国の世界戦略が加速されていくわけです。<br /><br />今回の締めとして、石油景気に沸くアンゴラ(年率20%近い経済成長)の素晴らしい景観のルアンダ港の写真と、社会開発の遅れが依然として続き、ごみの山で生活するルアンダの町の写真を通じて、そのコントラストにアフリカの矛盾を見出していただければと思います。次回第六回は、最終回として「国連改革の経験と反面教師としての中国外交から学ぶ」と称し、日本への進言をしたいと思います。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-48.html" title="<第四話へ>"><第四話へ></a> <a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-50.html" title="<最終話へ>"><最終話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e382a2e383b3e382b4e383a9e38081e383abe382a2e383b3e38380e6b8afs.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-130" title="第五話 アンゴラ、ルアンダ港s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e382a2e383b3e382b4e383a9e38081e383abe382a2e383b3e38380e6b8afs.jpg" alt="" width="300" height="193" /></a><br />(写真:景観の良いアンゴラのルアンダ港)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e383abe382a2e383b3e38380e381aee38194e381bfe381aee5b1b1s.jpg"><img class="alignnone size-full wp-image-131" title="第五話 ルアンダのごみの山s" src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace4ba94e8a9b1e38080e383abe382a2e383b3e38380e381aee38194e381bfe381aee5b1b1s.jpg" alt="" width="300" height="198" /></a><br />(写真;ごみの山のルアンダの町)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br />------------------------------------------------------------------
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【短期連載:第4話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------第四話 中国のアフリカ進出------------------------------------------------------------------(写真:コンゴ民主共和国地図) ※参考:コンゴ民主共和国はどんな国?▼中国のアフリカ進出私は、眼のあたりに中国の脅威を感じながら、2005年にアンゴ... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第四話 中国のアフリカ進出</span><br />------------------------------------------------------------------<br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382b3e383b3e382b4e6b091e4b8bbe59cb0e59bb3.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382b3e383b3e382b4e6b091e4b8bbe59cb0e59bb3.jpg" alt="" title="第四話 コンゴ民主地図" width="400" height="329" class="alignnone size-full wp-image-89" /></a><br />(写真:コンゴ民主共和国地図) ※参考:<a href="http://www.npoafrasia.com/rdc1.html" target="_blank">コンゴ民主共和国はどんな国?</a><br /><br /><span style="font-size:large;">▼中国のアフリカ進出</span><br /><br />私は、眼のあたりに中国の脅威を感じながら、2005年にアンゴラを去りました。昨今、中国のアフリカ進出はめざましく、数字を見ると、一目瞭然です。アフリカは、アンゴラの例のように、戦争・紛争が続いた国の多いところです。なぜでしょうか?、それは大量に埋蔵されている資源のためです。以前は米ソが、そして冷戦後はアフリカ諸国間での利権紛争です。典型的なケースは、レア・メタルの「コバルト」と、携帯電話やDVDやパソコンの、タンタルコンデンサーに不可欠な「タンタル資源」を持つ、「コンゴ民主共和国」をめぐる、ウガンダ・ルワンダ対コンゴ・ジンバブエ・アンゴラの争いです。そして現在は、ここに中国が深く関与しています。<br /><br />タンタル(コルタン)の世界の埋蔵量はコンゴが80%も保有していると言われます。コンゴはその資源故に、第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏(1961-1961)が、1961年の9月にカタンガのコンゴ動乱で亡くなった原因の国です。それに、コンゴは、現在のアフリカの国境線を決めた、1984~85年のベルリンでの、アフリカ分割会議の発端になった場所で、レオポルド2世と、冒険家スタンリーが、ベルリンで、ビスマルクに、コンゴの領土を私有地にするように、要請したところです。<br /><br />アフリカは資源の宝庫です。世界の金の25%、白金の75%、ダイアモンド50%、コバルト50%、クローム50%、ボーキサイト25%、銅5%、石油8%の埋蔵量を有しています。「はじめに」でもお話したように、コルタン、白金、クローム、コバルト無しには、IT産業、自動車産業は成り立ちません。一方アフリカは、世界貿易に占める割合はわずか2%以下で、アフリカの総人口の半分は、1ドル以下で生活する貧困、HIV/AIDSの感染者が世界の70%、内戦、難民、汚職と問題を抱える大陸です。資源が、社会開発の足かせになっています。アフリカで最大の石油大国のナイジェリアでは、貧困者は石油のことを「悪魔のふん」と呼んで、石油の資源が一向に、自分たちの生活の改善になっていないことを不満に思っているようです。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382a2e38395e383aae382abe989b1e789a9e8b387e6ba90e59cb0e59bb3400efbc8a528.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382a2e38395e383aae382abe989b1e789a9e8b387e6ba90e59cb0e59bb3400efbc8a528.jpg" alt="" title="第四話 アフリカ鉱物資源地図400*528" width="400" height="528" class="alignnone size-full wp-image-90" /></a><br />(写真:アフリカの豊富な天然資源) ※参考:<a href="http://www.iwaisec.co.jp/pr_se/product/fund/5800835_1.html" target="_blank">岩井証券:アフリカ大陸の高成長を支えるキーワードページより</a><br /><br /><span style="font-size:large;">▼貿易額は20年間で100倍に</span><br /><br />中国のアフリカとの貿易額を見てみますと、その進出は驚く程です。<br />1989年には、わずか10億ドルであった額が10年後の1999年には2倍の20億ドル、そして、2005年には400億ドル、2010年には、1000億ドルと予想されます。この20年間で、なんと100倍の伸びです。(因みにその間、インドは40倍以上の伸び)アフリカは、その植民地の歴史から、1960年代のアフリカ独立後も、宗主国との結びつきが強く、特に、東アフリカ・南部アフリカは英国、西アフリカはフランスの影響力が際立っておりました。中国の貿易額は、いまや英国を抜いて、米国・フランスに次いで、3番目に躍り出ています。フランスを抜くのも、時間の問題と言われております。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼中国のアフリカ進出の動機</span><br /><br />では、なぜ中国のアフリカ進出が急速に進んだのでしょうか?中国側とアフリカ側から、その理由を説明しましょう。<br />中国は1980年には、アジアではインドネシアに次ぐ石油の輸出国でした。私は1978~79年に、ブラジル石油開発公団の貿易会社東京事務所でマネージャーをしておりました。そのとき、中国の石油とブラジルの鉄鉱石のバーター・トレードの仲介をしていましたので、中国は石油の輸出で外貨を稼いでいた印象を持っています。その後、中国は急激な経済発展のもとで、1996年以降、石油の輸入に頼らざるをえなくなりました。2005年には、日本を追い抜いて、世界で2番目の石油の輸入国です。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382a2e38395e383aae382abe381aee7b5a6e6b2b9e68980.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e382a2e38395e383aae382abe381aee7b5a6e6b2b9e68980.jpg" alt="" title="第四話 アフリカの給油所" width="300" height="190" class="alignnone size-full wp-image-92" /></a><br />(写真:アフリカの地方の給油所)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼2008年の食糧暴動は中国の経済発展が大きく影響</span><br /><br />1997年の中国の輸入額の17%はアフリカからでしたが、2004年には29%、そして、2007年には31%と、年々アフリカの石油の割合が増えております。中国の石油輸入のビッグ・スリーは、アンゴラ、サウジアラビアとイランです。2005年には、ナイジェリアの石油採掘に23億ドルの投資をしました。1996年の一日当たりの石油消費は390万バーレルでしたが、2006年には、ほぼ倍の650万バーレルだそうです。2008年には、世界的に原油価格の値上がりそして食糧価格が異常に高騰し、発展途上国、特に、アフリカ諸国(セネガル、モーリタニア、カメルーン、ケニア、他)での値上げ反対のストライキ・暴動が起きました。その原因の一部に、中国の経済発展が、大きな影響を与えたことが指摘されています。つまり、中国での需要が大幅に増加して、供給を追い抜いたため、世界的な食糧バランスにも影響を与えたわけです。2008年8月に開かれた洞爺湖サミットでは、そのため、ご存知のように、3F(Fuel、Food、 Finance:燃料、食糧、財政支援策)が話し合われました。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼狙いは石油とレアメタル</span><br /><br />2006年の統計に依りますと、アフリカからの輸入は、アンゴラ(アフリカ第3位の石油輸出国;38%)、南アフリカ(レア・メタルの世界有数の輸出国;14%)、赤道ギニア(9%)、スーダン(7%)の順です。現在は問題を抱える戦争の続くコンゴ、宗教問題のナイジェリアの比率が高まっています。第三話でお話ししたアンゴラは2002年まで、40年以上にわたる国内戦争を続けてきた国で、スーダンはご存知のように、未だ、内戦が続く国ですが、1日の産油量の60%は中国向けです。もちろんパイプ・ラインは中国が建設したものですが・・・。赤道ギニアはフレデリック・フォーサイスの「戦争の犬たち」の舞台になったところで、2005年にはサッチャー元英国首相の息子が、クーデター未遂事件に関与したところです。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e383ace382a2e383a1e382bfe383abe381aee58887e6898befbc91.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e383ace382a2e383a1e382bfe383abe381aee58887e6898befbc91.jpg" alt="" title="第四話 レアメタルの切手1" width="300" height="375" class="alignnone size-full wp-image-93" /></a><br />(写真:レアメタルが描かれた切手1)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e383ace382a2e383a1e382bfe383abe381aee58887e6898befbc92.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e7acace59b9be8a9b1e38080e383ace382a2e383a1e382bfe383abe381aee58887e6898befbc92.jpg" alt="" title="第四話 レアメタルの切手2" width="300" height="417" class="alignnone size-full wp-image-94" /></a><br />(写真:レアメタルが描かれた切手2)<br /><br />次回の第五話では、もう少し、中国のアフリカ戦略の詳細を述べてみたいと思います。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-47.html" title="<第三話へ>"><第三話へ></a> <a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-49.html" title="<第五話へ>"><第五話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br 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【短期連載:第3話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------第三話 中国とアンゴラ------------------------------------------------------------------アンゴラ:資源大国、極端な貧富の差の国首都ルアンダ:国連での日当の一番高い都市(写真:アンゴラの地図)アンゴラは、南部アフリカに位置し、北はコンゴ民主... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第三話 中国とアンゴラ</span><br />------------------------------------------------------------------<br />アンゴラ:資源大国、極端な貧富の差の国<br />首都ルアンダ:国連での日当の一番高い都市<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e59cb0e59bb3.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e59cb0e59bb3.jpg" alt="" title="アンゴラ地図" width="450" height="285" class="alignnone size-full wp-image-83" /></a><br />(写真:アンゴラの地図)<br /><br />アンゴラは、南部アフリカに位置し、北はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国、南はナミビア、東はザンビアと国境を接し、国土面積は日本の約3.3倍で、アフリカでは7番目、世界では23番目と大きな国です。鉱物資源の大国でもあります。資源大国の故に、米ソの代理戦争になった国です。人口は約1900万人。1961年よりポルトガルからの独立戦争を始め、1975年に独立を果たしますが、その後、内戦が続き、2002年4月の国内紛争終結後、鉱物資源、特に、石油輸出で急速に経済発展をしております。しかしながら、貧富の差が激しく、2009年の国連の人間開発指数でも182カ国中、未だに、143位と、社会開発が低く、特に、教育、医療、衛生の分野でまだまだ、遅れた国です。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼ルアンダでフリーパスの中国人</span><br /><br />2002年6月に約2年弱の日本勤務後、再度、アフリカのアンゴラへ赴任した時のことです。<br />成田から香港そして南アフリカのヨハネスブルグへと約10時間の飛行機の旅でした。ヨハネスブルグに到着してびっくり。アンゴラの首都ルアンダ行きの待ち合わせには、なんと、7割もの中国人の旅行者でごったがえしておりました。そのほとんどが、労働者のような感じの人たちでした。<br />ルアンダに着くと、タラップの下に中国大使館員が待ち構え、フリーパスでどんどんと飛行場を後にするではないですか。私は一般乗客と一緒で、パスポート・コントロールに2時間以上もかかり、その上、荷物の検査で、日本から持参した日本のレトルト食品の赤飯にたいして、良く説明した後、一目で何であるのか分かった筈なのに、「輸出許可証が必要」といいがかりをつけられ、結局、飛行場を出るのに、3時間もかかりました。税関員はガゾーザ(賄賂金)が欲しかったようです。<br /><br /><span style="font-size:large;">▼中国人への特別待遇<br /></span><br />当時のアンゴラは、40年以上続いた内戦が2002年4月にようやく終戦締結になり、治安上の問題で、飛行場の管理が厳しいということは、話には聞いておりましたが、一方で、中国人への特別待遇には驚きました。国内の飛行場でも驚くなかれ、パスポート・コントロールと荷物検査が行われる。<br />その年の8月には、スペイン人のOCHA(国連人道調整局)の職員が、ルアンダの飛行場で無線機を手荷物に持って飛行機に乗ろうとしたという理由だけで逮捕され、3日間、拘束されるという事件もありました。それが私の頭に入っていたので、中国人に対する待遇には、あらためて恐れ入りました。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe6a98bs.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe6a98bs.jpg" alt="" title="アンゴラ破壊された橋s" width="300" height="225" class="alignnone size-full wp-image-74" /></a><br />(写真:地雷で破壊された橋)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e381afe38197e38191e7a0b4e5a38as.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e381afe38197e38191e7a0b4e5a38as.jpg" alt="" title="アンゴラはしけ破壊s" width="300" height="218" class="alignnone size-full wp-image-75" /></a><br />(写真:はしけ、地雷で橋を破壊)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼いたるところに地雷が埋設</span><br /><br />内戦終了後、我々は、反政府軍の兵士の収容キャンプに食糧を配るために、精力的に仕事をしました。キャンプは戦略的に、州境に置かれていたため、道なき道を食糧を積んだトラックとともに、向かいました。出発に際しては、地雷が敷設されているとのことで、Halo Trust(ハロー・トラスト)という英国の地雷除去の団体と連絡を取り合い、地雷の無い道を進むことにしました。1時間に20キロしか進めない道をトラックと共に、動くのは重労働でした。<br />戦争で、道路・鉄道・橋・発電所・農地・学校・病院が、戦略的に政府(MPLA)・反政府軍(UNITA)双方の攻撃の対象になり、地雷が敷設されました。橋が破壊されたため、川を渡る手段は簡易のはしけでした。その後、雨季に入り、私たちが通行した同じ道で地雷が爆発して、民間のトラックの運転手が死亡したそうです。地雷は、雨季になると動き始め、道路の端から真ん中へと移動します。命びろいをしたことになります。アンゴラでは地雷の問題は日常茶飯事で、同じような経験をしたことは3度あります。英国のプリンセス・ダイアナが地雷撲滅のために最後に訪れた国がアンゴラです。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9dianastamps.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9dianastamps.jpg" alt="" title="アンゴラdianastamps" width="300" height="276" class="alignnone size-full wp-image-76" /></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9dianastamp2s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9dianastamp2s.jpg" alt="" title="アンゴラdianastamp2s" width="200" height="251" class="alignnone size-full wp-image-77" /></a><br />(写真:プリンセス・ダイアナの記念切手)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼中国製の地雷の多さにびっくり</span><br /><br />そんなわけで、アンゴラの地雷の状態を調べざるを得なくなりました。ハロー・トラストだけでなく、NPA(ノルウェー人民援助)という地雷撤去の団体と一緒に、地雷の調査にも出かけました。NPAのネルソン・ドミンゴス氏に依れば、アンゴラには人口の数より多い2千万個以上に上る対人地雷と対戦車地雷がウアンボ州をはじめとして、アンゴラ全域に敷設されており、その地雷の製造元は旧東ドイツ、ルーマニア、ロシア、チェコ、中国だそうです。ネルソン氏の話では中国製の地雷はなかでも多いと聞き、同じ東洋人として、深く考えさせられました。ただ40年以上の独立戦争と内戦で、地雷がどこに埋められたかは全く、不明とのことでした。というのも地雷を埋めたポルトガル人、キューバ人、アンゴラ人の多数が死亡してしまっている。そして40年にわたる長い戦争のためどこに地雷を設置したかのデータが完全に失われているためでした。そのため地雷敷設の地図、地雷数はあくまで、推定の域にすぎないとのことでした。<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe799bae99bbbe68980s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe799bae99bbbe68980s.jpg" alt="" title="アンゴラ破壊された発電所s" width="300" height="236" class="alignnone size-full wp-image-78" /></a><br />(写真:地雷で破壊された発電所)<br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe688a6e8bb8as.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/09/e382a2e383b3e382b4e383a9e7a0b4e5a38ae38195e3828ce3819fe688a6e8bb8as.jpg" alt="" title="アンゴラ破壊された戦車s" width="300" height="256" class="alignnone size-full wp-image-79" /></a><br />(写真:地雷で破壊された戦車)<br /><br /><span style="font-size:large;">▼鉱物資源の宝庫アンゴラ</span><br /><br />アンゴラは石油、ダイアモンド、鉄鉱石、ウラニウム、金などの資源を持ち、一説には有名な映画になった“ソロモンの財宝”の国のモデルではないかと言われた国です。(作者のライダー・ハガードの本では、ジンバブエのようですが・・・)<br />MPLA(政府側)は海岸線を抑え石油資源(アフリカ第3位の生産国)をもとに、UNITA(反政府側)は内陸部を抑え、ダイアモンド(世界第5位の生産国)を資金源として戦争を続けました。鉱物資源のみならず、アンゴラは独立前はコーヒーの有数な輸出国でした。独立前の1970年には世界で4番目のコーヒー生産国で、22万トンあった生産が30年後はわずか1000トンです。戦争で、国内を逃げ回った人たちはコーヒーの木を薪に使われざるを得ませんでした。<br /><br />中国の現在の世界進出とその経済発展の繁栄の背景には、アフリカへの進出が大きな原動力になっています。つまり、アフリカ進出なくして、中国の現在は無いと断言できます。特に、アンゴラは中国のアフリカ進出の大きな足場になった国です。次回第四話「中国のアフリカ進出」では、中国のアフリカ進出を数字で分かりやすく説明します。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-46.html" title="<第二話へ>"><第二話へ></a> <a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-48.html" title="<第四話へ>"><第四話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br />------------------------------------------------------------------
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【短期連載:第2話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------第二話 ギニア・ビサウでの体験~混乱の続く国------------------------------------------------------------------「支離滅裂なジョッカ・ピメンテル事件」(ギニア・ビサウの地図) 今回は、私がアフリカ勤務最後の3年間滞在した西アフリカに属する「... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第二話 ギニア・ビサウでの体験~混乱の続く国</span><br />------------------------------------------------------------------<br /><br /><span style="font-size:large;">「支離滅裂なジョッカ・ピメンテル事件」</span><br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20100823183504b9b.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20100823183504b9b.jpg" alt="ギニアビサウ共和国地図" border="0" width="330" height="355" /></a><br />(ギニア・ビサウの地図)<br /><br /> 今回は、私がアフリカ勤務最後の3年間滞在した西アフリカに属する「ギニア・ビサウ共和国」でのエピソードをご紹介したいと思います。<br /><br /> 「ギニア・ビサウ共和国、通称ギニア・ビサウは、西アフリカに位置する共和制国家。北にセネガルと、南と南西にギニアと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はビサウ。面積は日本の約10分の1で、人口は150万人程の小さい国です。<br />1446年にポルトガル人が上陸し、南北アメリカ大陸への奴隷貿易の中継地となった。1879年にポルトガル領ギニアが単独でポルトガルの植民地となった。1963年から独立戦争を戦い、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党が国土の3/4を解放して、1973年9月24日に独立を宣言し、アフリカで唯一の独立勢力が宗主国に一定の勝利を収めた国家となった。その独立戦争で1974年のリスボン革命の導火線になり、東チモールやアフリカの旧ポルトガル植民地5カ国の独立の先鞭になった国です。国の経済を支えるのはカシュウ・ナッツ(輸出の90%)。<br /><br />2009年の国連の人間開発指数では182カ国中173位で最貧国の一つです。また2007年から2009年の勤務中に5回もクーデターが起こった政情不安なところです。そこでは、日本では考えられない、他のアフリカ勤務国でも大同小異で起きている「アフリカの縮図」的な出来事をご紹介します・・・・。<br /><br /><span style="font-size:large;">■2007年7月末:</span><br /><br />日本時間(深夜)0:30(ビサウ時間16:30)、突然の電話でした。<br /><br />「裕(ひろ)、日本での本国休暇中こんな時間に電話してごめんなさい。大変な問題が発生した」<br /><br />声が上ずって、かなり興奮したアメリカ人の部下のジャン・マルタンでした。<br /><br />「構わないよ。どうしたの?何かエマージェンシー?」<br /><br />「そう、今日の午後、製材会社の男が、勝手に、WFP(国連世界食糧計画)の倉庫に製材機をトラックで乗り付け、置いて行ったんです。彼によると、倉庫は自分が以前に使用していたと話している。製材機が邪魔になって、WFPの食糧の積み出しに支障が出て相当に困っている。どうしたら良いか大至急、指示してください。」<br /><br />「それは大変だ。先ず、第一に、外務省の国際協力局長のシルバ氏に連絡を取って、WFPの倉庫は治外法権である旨を伝え、なん人もWFPの許可を得ずして倉庫に入ることは出来ないことを本人にも伝えてください」<br /><br />「了解。そのように、行動します。」<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835031fd.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835031fd.jpg" alt="WFPの倉庫" border="0" width="300" height="200" /></a><br />(WFPの倉庫の写真)<br /><br />次の日18:00(日本時間)また、ジャン・マルタンよりの電話。<br /><br />「シルバ氏は不在のようで、連絡がつかない。製材会社の男と治外法権の説明をしたが、男はジョッカ・ピメンテルと言い、12年前まで、現在のWFPの倉庫の場所で、製材会社をしていて、その後、事業がうまくいかず、ポルトガルへ出稼ぎに行っていたが、先月ビサウに帰って来た。再度、ビジネスを始めるので、製材機を置いたわけで、倉庫の使用権利は自分の方にあると主張しています。政府との倉庫の権利に関する契約書も持っていると言っています。どうしたら良いですか?」<br /><br />「先ずWFPと政府の倉庫に関する契約書のコピーを彼に見せてください。WFPの契約書の方が優先される筈です。12年前と現在の契約の違いがいかに大きいか彼にでもわかる筈でしょう。兎に角、シルバ氏に連絡を取って、私が帰るまでに製材機を倉庫から外に動かすように、してください。」<br /><br /><span style="font-size:large;">■8月始め:ビサウにて</span><br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20100823183503487.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/20100823183503487.jpg" alt="ビサウの港" border="0" width="300" height="200" /></a><br />(ビサウの港の写真)<br /><br /><span style="font-size:large;">事務所へ戻って、</span>ジャン・マルタンと会議。<br /><br />12年前まではジョッカが主張するように、彼は、倉庫の脇で、製材の仕事をしていたことが確認された。<br />その当時、倉庫は政府が管理していてWFPの食糧も政府が管理していた。ところが、政府の食糧管理が杜撰で、40%(WFPの許容範囲は3%以下)近くの食糧がどこに行ったか不明で、その問題がWFPのローマの総会で問題になり、11年前より、WFPが政府に代わって倉庫管理を始めた。その後のWFPの倉庫への投資額は塀を造ったり、屋根を直したりと半端なものではなかった。<br /><br /><span style="font-size:large;">ジョッカのことは</span>調べて見ると、札付きの犯罪者で、事業がうまくいかなかっただけでなく、銀行強盗をして、ポルトガルへ逃げていたことが分かった。それだけでなく、前政権の大蔵大臣との個人的な結びつきが強く、シルバ氏も、あまり、強く出れない状況であることが、判明した。シルバ氏は、法務省と話しをつけて、其のあとに、強制撤去という方向性を進め、あまり、わたしがジョッカとは近づかないことを勧めた。<br /><br /><span style="font-size:large;">ところが、1か月たっても</span>2カ月たっても、問題は一向に進展せず、逆に、法務省からは、ジョッカ個人のビジネスを尊重することが重要で、倉庫をWFPが管理するのは違法のような判断が出てきました。同時に、WFPが別件で雇っていた弁護士が二重契約で、ジョッカ側につき、WFPのローマに、E-メールで、国際機関が個人のビジネスを妨害していると問題を歪曲し複雑にしたり、<br />現地の新聞にWFPと外務省がジョッカの仕事を妨害している旨の記事の載せたりと悪質な行動を取り始めました。<br /><br /><span style="font-size:large;">私個人にも嫌がらせをする</span>ようになりました。外務大臣、農務大臣、文部大臣とWFPの仕事を直接関係している大臣それに、司法長官と会議をしましたが、皆、猫の鈴に首をつけるようなことが出来ないようで、「WFPの立場は明白で、問題なのはジョッカだ」とは言うのですが、なかなか、具体的なアクションを取ってくれませんでした。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835038f3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835038f3.jpg" alt="ビサウのマーケット" border="0" width="300" height="200" /></a><br />(ビサウの町のマーケットの写真)<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835035e3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008231835035e3.jpg" alt="カシュウ・ナッツ" border="0" width="150" height="200" /></a><br />(ビサウの最大の輸出品のカシュウ・ナッツの写真)<br /><br /><span style="font-size:large;">唯一の解決方法は</span>首相に真実を話し、首相に決断をするようにお願いするしか方法がありませんでした。<br /><br />5か月後の12月、ようやく、首相とアポが取れ、ジョッカの不当性とWFPの正当性を説明することが出来ました。首相は警察長官に、製材機を撤去するように指示しました。撤去は翌年の1月にようやく終わりました。<br /><br /><span style="font-size:large;">この事件は、残念ですが</span>次のことを教えてくれました。<br /><br /> ―誰も、結論を出したくない社会(ネポティズムー身内主義、なれ会い社会)<br /> ―犯罪者が大手を振っている社会(ビサウには1998年以来、刑務所が無く、2010年に完成予定)<br /> ―論理が通じない社会 (過去と現在の区別がつかない)<br /> ―セキュリティの会社が頼りない社会(簡単に誰でも倉庫、事務所へ誰でも入れてしまう。<br />  何度となく、セキュリティの会社にセキュリティとは何かを説明し、ノートに必ず記帳するように訓練し、<br />  荷物検査も徹底するようにし、少しは良くなったのですが。。。)<br /> ―法事国家ではない社会・人治主義社会<br /><br />さて、もう少し、いろいろなビサウでの経験を述べたいのですが、紙面の関係上、今回はこの辺にて終了します。<br />次回はアフリカで、首都の勤務ではなく、初めて経験した地方事務所のアンゴラを中心に「中国とアンゴラ」に迫ってみたいと思います・・・。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-45.html" title="<第一話へ>"><第一話へ></a> <a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-47.html" title="<第三話へ>"><第三話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br />------------------------------------------------------------------
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【短期連載:第1話】「報告 アフリカ現場体験26年~中国・アフリカ・国連」

松村裕幸前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒------------------------------------------------------------------はじめに------------------------------------------------------------------中国に関するニュースは、今では、世界各地で、報道されております。世界的な新聞Herald Tribuneもその紙面で、扱わない日がないほど、中国の記事は良くも悪くも、世界をかけめ... 松村裕幸<br />前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br />上智大学外国語学部ポルトガル語科1970年卒<br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">はじめに</span><br />------------------------------------------------------------------<br /><br />中国に関するニュースは、今では、世界各地で、報道されております。<br />世界的な新聞Herald Tribuneもその紙面で、扱わない日がないほど、中国の記事は良くも悪くも、世界をかけめぐっています。<br /><br />先月6月も、スペインの南の端のCadizの町に行ってみて、衣類・雑貨の店の殆どは中国人が経営して、朝から晩まで、働き、そのお店の数の多さと共に、PIIGS(Portugal, Ireland, Italy, Greece and Spain)の一環である不況下のスペインで、閑散としたお店と違って、例外的に、お客で混雑しておりました。<br /><br />アフリカでも例外ではなく、逆に一層、中国の進出が顕著です。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2010081901021137f.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2010081901021137f.jpg" alt="地雷撤去の現場" border="0" width="300" height="337" /></a><br />(現地に赴任したばかりのときの地雷撤去の現場での写真)<br /><br />私は、国連世界食糧計画の職員として、1982年2月より2000年7月までアフリカに勤務し、2000年8月より2002年5月まで、一時日本に戻り、2002年6月より、また、アフリカに再赴任し、今年(2010年)2月までの通算で、26年のアフリカ勤務となりました。<br /><br />勤務先は、モザンビーク、マラウイ、ナミビア、カーボ・ベルデ、ギニア・ビサウ、アンゴラの6カ国ですが、アフリカ53カ国のうち、勤務先を含めて、国際会議、出張で、25カ国を訪れました。<br /><br />アフリカは面積で日本の約80倍の大きさで、旧宗主国との昔から関係で、飛行機の運航はアフリカ各国と各宗主国との間で行われ、アフリカを横断することがかなり大変です。そんなわけで、冒険とは違って、勤務で、25カ国を移動することは、難しいことでした。その経験は1999年アフリカ横断記というレポートで、FAO・WFPの職員組合の機関紙にレポートしました。<br /><br />詳細なレポートはまた別の機会として、今回は、コムソフィア・オンラインへの掲載と言うことで、「2002年以前と以後で、アフリカは何が変わったか」を柱として、以下のように、中国とアフリカ、国連とアフリカ、そして中国と日本とアフリカの関係を述べて、最後に、では「日本はどうしたらよいか」というわたしなりの提言をしたいと思います。<br /><br />第一話:アフリカ26年勤務でアフリカは変わったか<br /><br />第二話:アフリカの現実 - ギニア・ビサウの実例<br /><br />第三話:中国とアンゴラ<br /><br />第四話:中国のアフリカ進出<br /><br />第五話:資源を持ち去る中国<br /><br />第六話:形骸化する国連、- 始めての合同事務所<br /><br />------------------------------------------------------------------<br /><span style="font-size:large;">第一話:アフリカ26年の勤務 その間アフリカで何が変わったか</span><br />------------------------------------------------------------------<br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/africaMAP2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/africaMAP2.jpg" alt="africaMAP" border="0" width="480" height="480" /></a><br />※香高堂風信記より拝借<br />http://www.deskm.co.jp/kotaka/kdf02/ds2.html<br /><br />2002年6月に南アフリカのヨハネスバーグ空港からアンゴラのルアンダまで南ア航空で飛んだ記憶は未だ鮮明で、忘れられません。乗客の7割近くが中国人で、ルアンダの飛行場に着くと、パスポート・コントロールに長蛇の列で並ぶ乗客(一人20分近く、パスポートの検査にかかる)。一方、中国人は、待ち受けた大使館員の指示で特別待遇あつかいで、すいすいとパスポート・コントロールを通過し、荷物の通関もフリー・パスでした。こちらは、スーツ・ケースを開けるように命令され、開けると、日本から持参した日本食品にいいがかりをつけられる始末でした。20年前の1982年に始めて、パリから、モザンビークのマプトへと飛んだ時とは、大きなコントラストです。アフリカの通常的な飛行機での混乱があり、そのおかげで、乗客と知り合いになりましたが、乗客のなかには、チリのアジェンデ政権で政府の上層部にいて、独裁者ピノチェから逃れたチリ人とか、東欧からのCooperanteと呼ばれる人たちでした。まずは1982年当時と2度目の赴任の2002年で最も変化のあったことをまとめます。<br /><br /><span style="font-size:large;">■アフリカなくして日本の産業が成り立たない事情</span><br />先ず第一に、アフリカ-日本とは関係ないやと思われるかもしれませんが、今や日本もアフリカからのレア・メタルのタンタライト(コルタン)の輸入無しには、携帯電話もDVDもパソコンも生産出来ないのが実情です。それに、自動車の排ガスを浄化するのに使用される白金、車体用に鋼板を強化するためのクロムなどの輸入がアフリカから途絶えてしまえば、日本の自動車産業もなりたちません。1970・80年代は、アフリカからの輸入と言えば、エジプト・スーダンからの綿花が殆どでしたが、今では、魚(たこ、いか、えび、まぐろ)や果物(グレープ・フルーツ)からワイン、コーヒーまでアフリカ産のものがスーパーで良く見られます。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008190100327bb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008190100327bb.jpg" alt="中国の建設会社の看板" border="0" width="300" height="194" /></a><br />(中国の建設会社の看板(アンゴラーロビト))<br /><br /><span style="font-size:large;">■中国のアフリカ進出</span><br />20年前の1982年に初めて、パリからモザンビークのマプトへと飛んだ時には中国人の姿はほとんど見かけませんでした。<br />ところが2002年から2005年まで勤務したアンゴラでは中国人の労働者が大量に道路、鉄道の復旧工事、住宅建設に携わり、2005年から2007年まで居たカーボ・ベルデではチャイナ・タウンが出現、2007年から2010年まで勤務したギニア・ビサウでは、中国が、政府官公庁の建物の建設(Capitol Hill)を請け負い、2010年中には、完成予定といった具合に、中国のアフリカ各国への進出は目覚ましく、ヨーロッパ諸国に代わって中国のアフリカ支配が強まっています。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2010081901003124d.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/2010081901003124d.jpg" alt="中国製品SONNYの写真" border="0" width="300" height="201" /></a><br />(中国製品SONNYの写真)<br /><br /><span style="font-size:large;">■韓国製電気製品と車と携帯</span><br />西アフリカのセネガル、カーボー・ベルデ、ギニア・ビサウでは、新築のホテルではエアコン、テレビは韓国のLGが、いたるところで見られ、日本の家電製品は見られなくなりました。家電品を扱う店でも、同じ状況です。<br />アンゴラでは車も日本車の中古品とトヨタのランド・クルーザーを除いて、韓国のヒュンデイ(現代)自動車が増加していて、携帯にいたっては、韓国のサムソンがアンゴラ、カーボ・ベルデ、ビサウで圧倒的なシェアを誇ります。<br /><br />サハラ砂漠以南の国の携帯の平均普及率は2000年から2005年で2%から11%で、2010年ではその率はほぼ40%近いと推定されます。<br /><br />中国製の電化製品はSonyと紛らわしい名前のSonnyという商品が堂々とビサウの4つ星ホテルに設置されておりました。それに、乾電池の品質の問題で液漏れがひどく、ソニーのマルチ・バンドの短波ラジオをだめにしてしまいました。<br /><br /><span style="font-size:large;">■南ア航空の路線拡大と南ア資本の進出</span><br />南アフリカの悪名高かったアパルトヘイト(人種隔離政策)が1991年、撤廃になり、1994年マンデラ氏が大統領に選出されて以来、南ア航空に対する欧米とアフリカ各国の制裁解除によって、南ア航空はヨハネスブルグ空港をハブとして、アフリカでの路線を拡大しています。<br /><br />アメリカへの路線は以前はアメリカの制裁によって運航していたカーボ・ベルデのサル島経由の路線は2007年をもって、廃止されました。南アは、制裁を受けたために、1975年にサルの飛行場へまるがかえの投資、建設をしました。今では、セネガルのダカールまで路線が拡大し、西アフリカへの路線がかなり便利になりました。ただ、西アフリカではガンビア-ビサウ、ビサウ-コナクリのように隣国間の路線は存在せず、まだまだ運航には時間がかかりそうです。<br /><br />南ア航空の路線拡大だけでなく、南ア製品(ワイン、果物、衣類)及びスーパー・マーケットが南部アフリカ諸国で頻繁で見られます。それに、南アの携帯電話会社MTNの進出も見られます。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008190100317da.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-45.fc2.com/c/u/m/cumsophia/201008190100317da.jpg" alt="戦争で破壊された建物" border="0" width="300" height="193" /></a><br />(戦争で破壊された建物(アンゴラーウアンボ))<br /><br /><span style="font-size:large;">■内戦の終結</span><br />東西冷戦の終了の影響で、2002年に40年に亘った内戦のアンゴラ、それに、モザンビーク、リベリア、シエラ・レオーネ、コート・ジボアール、ルワンダ、ブルンジなど、長かった内戦が終了した国が長いトンネルから抜け出し、ポジテブな半面、残念ながら、スーダン、ソマリア、コンゴなどでは未だに、内戦が続いています。特に、スーダン、コンゴでは、依然として、資源・民族・宗教問題によって難民問題を抱え、地域紛争に拡大しております。<br /><br />変わらない事と言えば、次の問題です。<br /><br /><span style="font-size:large;">■ガバナンスとマナージメントの問題</span><br />国を管理・運営することが、なかなか、出来ず、税金を徴収することが、<br />満足に進まず、汚職とドラッグに結びつき、国の混乱を招いていること(アフリカのエリートはその国の約40%を海外に資産として保有、アジアは6%とのこと)<br /><br /><span style="font-size:large;">■基本的なインフラの問題</span><br />水道、電気は多少は改善しつつも、まだまだ、満足できるレベルに達していないこと (サハラ砂漠以南の国で電力を受給できる人の割合は平均で26%) 道路の舗装率が20%以下とまだ低いこと<br /><br /><span style="font-size:large;">■ハード・ミニストリー vs ソフト・ミニストリー</span><br />大蔵省・陸軍省と農林・厚生・文部省の力関係が雲泥の差で、農業・医療・教育への予算の配分が少ないこと<br />社会風習(葬式、結婚、割礼)が保守的であること、統計が信頼出来ないことなど<br /><br />今回は以上です。次回第二話は西アフリカの小国ギニア・ビサウでアフリカの現実を取り上げます。アフリカの縮図と言える国です。<a href="http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-46.html" title="<第二話へ>"><第二話へ></a><br /><br /><a href="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg"><img src="http://comsophia.files.wordpress.com/2010/08/e69dbee69d91e8a395e5b9b8e38195e38293s.jpg" alt="" title="松村裕幸さんs" width="100" height="150" class="alignnone size-full wp-image-241" align="left" /></a><br />------------------------------------------------------------------<br /> <筆者近影><br /> 松村裕幸(上智大学外国語学部ポルトガル語学科1970年卒)<br /> 前WFP(国連世界食糧計画)ギニア・ビサウ代表<br /> 第12回(2002年)コムソフィア賞受賞<br />------------------------------------------------------------------
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